そうか。疲れちゃったな。

「る」じゃねえな、というのは、なんとなくわかるようになった。
いや、やっぱり「る」かは?雨月物語(1776年;安永5年で同じ年)的には「る」か。
仮名は書き癖もあるから面倒臭いんだよね。文中の他の使用例と比べることになるが、それがまた面倒というね。
だから、こんなもの全部、OCRでAIが自動的に訳してくれたら楽でいいんだけれどね。
と思ったら、前のページに同じ字があった。

あまる - ウィクショナリー日本語版
あます - ウィクショナリー日本語版

な+あまし+そ じゃないんだね。また、漢字で書かれるとピンと来ないというね。

「あましそ純善凡得」ってどういう意味なんだろう。
「あまる所純善凡得」どっちだろう。
この時代、「あまる所」という表現があったのか?

 

仮名で書けばわかるってもんじゃねえよな。

次の「いかりせ・・・なかれ」も「すしし」よりも「するる」の方が「脈あり」の気がするが。どうしたものか。

助動詞 過去のき 意味接続活用 | 古文文法 | 古文 | 大学受験講座 | 東京先生

は比較的にわかりやすいのであるが、

「き」がカ変・サ変に接続するときは、接続が未然形になることがある。

過去・完了の助動詞 (古典文法:基礎~標準) - 勉強応援サイト

これって、たぶん、説明 できてない 、、、、、 よね。

『功過自治録』を「複式簿記」ではなく「単式簿記」で理解したがる「癖」があると言ったが、「簿記」だから難しいということではなく、こういうことだと思う。

 

  「き」カ変・サ変に接続するときは被接続用言が未然形に なる 、、 ことがある。

 

じゃないとおかしいんじゃないかな。つまり、前後の単語がともに活用するとき、順序を以て指示しないと、一般的には指示にならないんじゃないか。これ一般社会だとトラブルになるんじゃないかね。「法」は「法則」だけじゃなく要素の関係の明示であるから。どっちがどうだかわからないと意味ないんじゃない?
「ガ格」に条件「は」を付しているのだけれど、このとき、一番目の「接続」と二番目の「接続」が同じ内容を指示していると、この文から直接読み取ることができるだろうか?

  「き」カ変・サ変に接続するときは「き」が未然形に なる 、、 ことがある。


このとき、(主語を受ける)述語は「なる」なのであるから、

  「き」、カ変・サ変に接続するときは、未然形に なる 、、 ことがある。

句読点で句切ってもよい(ことになる)。主文は何で、従属文は何で、述語は何で、主語はなにかと考える時に、ずらずらずらっと記録された「(文の)状況」の観察であって、説明になってないなと思った。
反対に、そうではないのだから、

  「き」カ変・サ変に接続するときは接続によって未然形に なる 、、 ことがある。


「何が?」となる。
驚くことに、(私たちが高校生だったころから)これが平均的な説明なのだ。
まぁ、一般社会では、通用しないんじゃないかなぁと思う。クレーム来るだろ。
そう考えると、「簿記」ってあんまり好い言葉じゃないと思う。帳簿記録だと説明不足だよね。ここで暗に含意されていることは、自然な道理だろうと思う。だから「自ずとなりゆく様を記すのみ」と行動主義的になるのかもしれないけれど、没入しているそのメカニズム自身を指摘するべきであって

簿記の語源・由来は?【bookkeeping→ボキは眉唾物である】 - おまきざるの自由研究

むしろ、「帳合」のママの方がよかったね。

帳合とは?小売流通業における意味と役割、メリット・デメリットなどを解説 | リテールガイド

それに「簿」じゃなくて「譜」だね。「簿記」じゃなくて「合譜」だ。そのとき、「譜」の構成に「簿記」がある。

「簿」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習
「譜」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習

 

閻魔大王のリストラってのが面白くて、浄土真宗に49日ってないよねって話なんだけれど、閻魔大王が何をしていたかというと、帳面つけて審判していた、、というより、コンサルみたいなことをやっていたらしい。

このとき、「三方功徳」ということがあって、「君は悪いから、どうしようかな」と言われたときに、「功徳を積む」方法があるというね。寄進なんだけれど。

そうすると、悪人正機じゃなくって、何が「悪」だったかもあるけれど、貧乏人正機なんじゃないかって思うよね。
貧乏人に寄進しろって暗に 、、 言われても、ないからね。念仏はタダやからね。

この頃(撰銭令と)徳政令がよく出て、復古が望ましいと考えられたためみたいな説明をされるけれど、「悔返」を考えると、そうかな?というね。
興味深いのは、「仁政」じゃなくて、「徳政」というところで、

儒教思想において重要な規範的価値は、生まれによってではなくその人の徳の現れた実際の量の結果によって社会的地位が決せらるべきであるということである。

徳 - Wikipedia

一方、

仏教の徳には、性質としての徳である(梵: guṇa)、行として徳である(梵: vṛtta)、報果としての徳である(梵: puṇya)などがある[2]。そのいずれもが「徳」または「功徳」と、一義に漢訳された(報果の場合は「福田」というように別の漢訳もなされることはあった)

徳 - Wikipedia

ここで前回(複式簿記)の話に繋がる。

 

 

国境のトンネルを抜けると、窓の外の夜の底が白くなつた

雪国 (小説) - Wikipedia

これにポンと「雪国」を入れると、

三島由紀夫は、『雪国』の冒頭の汽車の窓ガラスの反映描写を、「川端文学の反現実的なあやしさが、一つの象徴としてかがやいてゐる」とし、それはあたかも「哲学書の序論」で、「各種の哲学用語」が定義されているように「全篇の序曲」となり、この作品の中における「人物」「風景」「自然」「事件」が何であるかが、「あらかじめ提示され、ひそかに答へ尽くされてゐる」と説明している[1]。

雪国 (小説) - Wikipedia

中島敦の『山月記』(或いは、『文字禍』)の耽美的な世界に近いだろうと思う。
概念から入っていって、夏目漱石草枕』(1906年)から宮沢賢治銀河鉄道の夜』(1934年)までの美的な死生観や、色彩感から何かしら影響を受けただろうか?

童話『銀河鉄道の夜』の色彩語パターン分析

実は、白(40)、黒(40)、青(33)、赤(27)の順で多いというね。

要は、横光のモンタージュ技法も含めて、技術の粋を集めたのではないかという印象を持っている。川端を以て日本人の心情或いは認識を代弁しているという意味でそこから日本人の理解の仕方を一般化するのには違和感があって、技術でそう感じさせているだけだろうと思う。代表しているとは言えるかもしれない。しかし、それは単に集約しているということではない。それを知って恰も以前からそうであったと感じさせるだけで、オリジナルなものだろうと思う。

太宰ファン
★★★★☆初めて知る川端康成の実像に驚愕
2013年6月29日に日本でレビュー済み
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吉村昭のエッセイに、若いころ、いろんな作家の短編小説を筆写して文体を修業した、そのときに「川端の文体だけは真似できないし、真似しない方がいい、危険だ」と感じた、云々の話がありました。

 

 

漢字に拘る意味で、比較してみた。