ここでは3つのことが出てこない。
テンプル騎士団 - Wikipedia
教会大分裂 - Wikipedia
メディチ家 - Wikipedia
年 | テンプル騎士団 | 教会大分裂 | メディチ家 |
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1099 | 第1回十字軍エルサレム占領 | ||
1128 | トロア教会会議で修道騎士会として認可 | ||
1139 | 国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除 | ||
1147 | 第2回十字軍で奮闘。パリ郊外の土地を受贈。 | ||
1163 | 回勅 Omne Datum Optium(修道会と財産の聖座による保護、司教からの独立) | ||
1146 | フランス王国の国庫を正式に預かる | ||
1307 | テンプル騎士団の異端審問。資産の聖ヨハネ騎士団への移管、活動の禁止決定 | ||
1312 | ヴィエンヌ公会議で正式にテンプル騎士団の禁止を決定 | ||
1314 | ジャック・ド・モレーら指導者4人の処刑 | ||
1360 | ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ生 | ||
1377 | グレゴリウス11世が教皇庁をアヴィニョンからローマに戻す | ||
1378 | グレゴリウス11世没。ウルバヌス6世、クレメンス7世選出(分裂開始) | ||
1389 | コジモ・デ・メディチ生 | ||
1397 | メディチ銀行(1397年 - 1494年)の創設 | ||
1409 | ピサ教会会議開催。アレクサンデル5世選出。3人教皇鼎立 | ||
1410 | ローマ教皇庁会計院の財務管理者就任 | ||
1414 | コンスタンツ公会議召集。ヨハネス23世廃位。グレゴリウス12世退位。 | ||
1417 | ベネディクトゥス13世廃位。マルティヌス5世選出(分裂収束)。 | ||
1429 | ジョヴァンニ没、コジモ当主就任 | ||
1416 | ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ生 | ||
1439 | フィレンツェ公会議を開催 | ||
1449 | ロレンツォ・デ・メディチ生 | ||
1453 | コンスタンティノープル陥落 | ||
1469 | マルシリオ・フィチーノ、プラトン全集の翻訳を開始(~1494年) | ||
1464 | コジモ没、ピエロ当主就任 | ||
アッルミエーレ(鉱山、鉱山会計事務所)における明礬の独占権を獲得 | |||
1469 | ピエロ没、ロレンツォ当主就任 | ||
1472 | ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ生。ピサ大学の改革 | ||
1492 | ロレンツォ没、ピエロ当主就任 | ||
1494 | フランス軍、フィレンツェ侵攻 |
戦国大名化に①港湾支配、②鉱山開発がどれほど意義深いかを考えたときに、ピエロのアッルミエーレ鉱山の独占は考えさせるものがある。
13世紀のトピックは書きようがなかったけれど、テンプル騎士団がパリを中心に最盛期を迎えただろうと思う。
14世紀にテンプル騎士団が壊滅する一方、末にメディチ家がローマで金融業に乗り出す。フランスとローマで教会大分裂が起きたころだ。
この頃、
Francesco di Marco Datini (c. 1335 – 16 August 1410)が活躍したらしい。
15世紀にメディチ家が最盛期を迎えたが、末にフランス軍の侵攻を受ける。
第3章 新プラトン主義に敗れたメディチ家
ルネサンス期のフィレンツェを支配していたメディチ家。ヨーロッパ最大の富豪を支えた会計技術は、なぜ一世代で失われてしまったのか。その謎を解く鍵は、新プラトン主義によるエリート思想の流行にあった。
ジェイコブ・ソール(2015-04-10).帳簿の世界史(文春e-book) (Kindle の位置No.28-31). . Kindle 版.
でも、コジモがそのパトロンだったんだけれど。変だな。
地中海世界(ギリシャ帝国)からドイツ帝国の時代に入っていくが、ここらへんもカバーできれば良かった。
リヴォルノとヴェネツィアのユダヤ人によって採用された事業形態の中で,コンパニーアとして知られている契約は,あまり一般的ではなかった62)。これは合資契約よりも安定したタイプの事業形態で,14世紀に登場した。1340年代にフィレンツェの国際銀行が次々に破産したのち,コンパ―ニアは(フランチェスコ・ダティーニ(1335頃-1410年)の事例のように)1人,または(メディチ銀行(1397-1494年)の場合のように)1家族の指導のもとに,多数の自立的な存在を結びつける新しい事業形態として出現したのである。この組織は,主要な家族の統制のもとに,相互に連結した支店(給与雇用者たちによって管理される支店もあれば,若年のパートナーによって管理される支店もあり,その自立度は異なっていた)のネットワークを包摂していたために,近代の持ち株会社と似ているとされてきた。しかしながら、この規格化された組織でさえ,信用のおけない,あるいは技量の欠ける代理人を用いることから生じる危険性を取り除くことはできなかった。たとえば,メディチ家を弱体化させたのは,結局のところ不誠実で能力の低い支店の支配人たちであった63)。にもかかわらず,コンパニーアは権力の集中と有限責任のバランスををうまく調和させた。だからこそ,スペインのメディナ・デル・カンポのルイゼ家やフランドルのデッラ・ファイユ家,南ドイツのフッガー家やウェルザー家のように,16世紀のヨーロッパの多くの有力商人たちによって採用されたのである64)。
より安全で集権的な事業形態がすでに利用可能であった時代に,リヴォルノのセファルディムのほとんどが包括的なパートナーシップを運用することを選んだのはなぜだろうか。
P242-243,2親族,契約,ネットワーク,第5章結婚,嫁資,相続と商社の形態,異文化間交易とディアスポラ: 近世リヴォルノのセファルディム商人
下線強調,赤字強調は引用者
300年後,トスカーナの商人フランチェスコ・ダティーニの通信相手たちは,「友人」という言葉を信用できる取引の代理人を示すために使っている55)。
55)バルセロナでダティーニのビジネスを取り仕切っていた人物にある通信相手が1398年にイビサから送った書簡には,「あなたが私のなかに良き友人を見出したものと固く信じています」と書かれていた(Melis1972:182)。ダティーニとフィレンツェの公証人ラポ・マッツェイのあいだの往復書簡にも,友情を示す広範な表現が満載である(Trexler1980:136)。15世紀のフィレンツェにおいてfriendshipという語が持っていたさまざまな意味合いについては,Klanpisch-Zuber1985:68-93:McLean2007:とくに29-30を参照。
P310,手本としきたり,第7章異文化交易と,商人が作成する書簡のしきたり,異文化間交易とディアスポラ: 近世リヴォルノのセファルディム商人
フランチェスコ・ダティーニ 1335頃-1410年
経覚 1395年-1473年
蓮如 1415年-1499年
A:Pについて、如何
B:Pについては、Qなからんか(作麼生)
A:Pについては、Qであるべし。如何(説破)
B:Pについては、然もありぬべし
「顋門「鴃」「作麼生」日本人なら知っておきたい! 全部読めたら漢字マスター!
これで正しい自信はないが、こういう会話文が当然になされることがある。
聞かれて答えた方が教えられるという不思議な会話で慣れることはないが、慣れることがないから自然に書けない。
つまり、トスカーナの商人は友情を、リヴォルノのユダヤ人は婚姻を利用したのだが、ここでは、何かしらの上下関係が基礎となっているように感じるが、それが転倒するのが特徴であるようだ。
わざわざ上下関係を作らなくてもよいのではないかと思うが、どうも「対等な関係」という観念じたいが「ない」らしい。