Roxana

 

markovproperty.hatenadiary.com

 

力尽きそうになっていたが、奮起した。奮起する必要があるのかは知らない。

要は、この限りでの発端は、

「プロバビリティー」のこのような意味が、どのようにして18世紀の英語にまで残ったのかをみてみよう。

P.38,第三章臆見,『確率の出現』

から

ここまで来れば、デフォーの『ロクサーナ—幸運な女主人』の趣きを理解できる。女主人の居心地の良い邸宅「は実にプロバブル価値がある」―これが意味しているのは、彼女がその邸宅を是認しているということではなく、彼女の目上の知人たちの好意によって、その家が彼女をみすぼらしい出自から抜け出す足がかりだということである。

P.38,同前

これを見ていたのだ。


私の文章も酷いが、この人の文章も相当酷くて、残りの数ページで何を言っているのかほとんどわからない。
しかし、興味深い。

17世紀の新しい知の基礎的な特徴の一つは、第一性質と第二性質を区別したことである。哲学者たちはロックを通じてこのことを知り、そのためにこの区別の要点を見落としている。

P.48,第三章臆見

最初に病原菌理論を考案したとされるフラカストロ(1483-1553)の伝染病に関する著作がある。

伝染病にはそれぞれ特有のしるしがあり、伝染病の到来を事前に伝えるものや、すでに感染していることを示すものがある。前駆的(premonitiory)と呼ばれるしるしは空から空気から、あるいは土や水の周辺から到来し、これらの中にはほぼ信じられるものと、信じられることが多いものがある。したがって、それらすべては予後予測(prognostication)としてではなくプロバビリティーを含んだしるし、、、、、、、、、、、、、、、としてのみ考えるべきである(Fracastro 1546,Bk.Ⅰ,Ch.xiii)。

P47,第三章臆見

要は、シンボルは実体そのものではない、ということである。
この書は「確率」に述べており、この人はここで、パスカルガリレオ・ガリレイについても述べているが、ほとんど意味不明である。
なぜだろう?
おそらく、数学史上、、、、の最も重要な一人の天才を知らなかったからである。
シモン・スティブンである。
実は、後に紹介するが、シェークスピアにに触れて、彼に触れないのは、明らかにおかしいのである。
しかし、理由は、わかる。
「プロバブル」と言っていないからである。代わりになんと言ったか。
前もって、スティブンを「わかりやすく」紹介すると、数学が、数詩から「読解」、簿記から「表解」、コンパスから「図解」、占いから「盤解」の4系統から発達した学問だと仮定したときに、1582年に複式簿記と利子について解説した著作から始めた人である。
何がこれで重要か。数は所詮操作対象に過ぎない点である。複式簿記科学性、、、は、「幾何的な神秘」を以て、何だか知らないが、、、、、、、、、帳尻が「合う」ことが画期的なのであった。
要は、帳簿とは、実物そのものを直接扱うのではなく、シンボルを通じて間接的に扱う便利な「機械」だったわけである。
そういった意味で、ライプニッツと双璧を為す。
ライプニッツが法学者だったときに「債務論」が彼の公理を生みだすきっかけを与えた。その「債務論」は紙の上の「契約」で、文字に過ぎなかったからである。これは(数詩ではないが)「読解」である。
こういった理解を決定的に欠くがゆえに、この著者(或いは翻訳者)の言っていることが意味不明なのである。物理学のみが数学を表現しているわけではなかったことが、「プロバブル」にとって本質的に重要だったにもかかわらず。『ヘンリー6世』や『ロクサーナ』、あるいはロック、あるいはフラカストロに気づいた点はよかったが、周辺をうろつく、、、、、、、だけで終わっている。

スティブンは,ルネサンス期に輩出した万能の天才の一人であり,物理学においてはガリレオデカルトパスカルに先行して静力学や流体力学に大きな足跡を遺し,17世紀科学革命の先駆者の位置にいる.

P.76,1.1の数的身分をめぐって,第3章数概念の転換,『小数と対数の発見』

さきほどの『利子表』を表した後に、1585年に「画期的」と取り上げられやすい『十分の一法』を出版したその年に、見落とされやすい、、、、、、、、『算術(L'arithmetique)』をフランス語で上梓したらしい。
彼は大見えを切る。「手前、生国を発しまするは」ではない。

  1. 算術は数の科学である.
  2. 数は,それによってそれぞれの事物の量を表すものである.

当たり前なのだ。しかし、これまで「当たり前」が当たり前でないさまをいくつか見て来た。なぜか。それが論理だからであるこれは事実の紹介ではなく、宣言文なのだ
だから、続いてスティブンは大書する。


  1は数である(L'UNITE EST NOMBRE)


と。『この時代,「1が数である」という見解の表明は,数の理解としては,あえて強調しなければならないほどに革新的な,いや革命的なことであった』(P.79,同前)。もう少し敷衍すると「以前にプラトンが数〔整数〕の単位としての1を特別視していたことを見たが,以来,単位としての1そのものは数に含められていなかった.平たく言えば,数は単位としての1の多数個の集まりであるが,単位の1そのものは集まりではないので数ではない,という理解である」それを受けて最初にこのことを明言したのが(プラトン自身ではなく)アリストテレスで「最小の数は,数の端的な意味では,2である」(P.80)として「1は・・・・・・・不可分割的」(P.80)であり「1と数とは対立している」(P.81)とあり、ユークリッドの『原論』第7巻には

  1. 単位とは存在するもののおのおのがそれによって1と呼ばれるものである.
  2. 数とは単位から成る多である.

とある。
ここにおいて、世界が数でできているなら、世界はもとより「多」なのであった。
ここで思い出す。1日の始まりは、夕であったか、朝であったか
「5世紀の教父アウグスティヌスの『神の国』には,数を奇数と偶数に分類したうえで「3は最初の奇数である」とある※8.※8Augstinus『神の国』三p.82.」(P.81)

スティブンの画期的な『十分の一法』は小さなパンフレットだったらしく

  1. 十分の一法は,10進法の考えにもとづいて考案された.それを用いてどのような数でも書き表すことのできる通常のアラビア数字を使用した算術の一種であり,実務で出会うどのような計算も,それによって,分数を用いることなく整数だけで遂行することができるる※38
    ※38(省略;引用者註:概略だけ述べると、「小数算術」と謂うアルゴリズムである。「分数」というが「比」でないかと思うが、いずれにしてもそうである。要は「簿記」は当時、今日のコンピューターのような「アイデア」だったと思う)
  2. 前に置かれているすべての整数(仏、以下省略)は始原(仏、以下省略)と呼ばれしるし(signe,Sijn)⓪を有する※39
    ※39(省略)
  3. 始原の単位1の十分の一は1次(Prime,Erste)と呼ばれ,印①を有する.1次の十分の一は2次(Seconde,Tweede)と呼ばれ,印②を有する.そして以下の小さい単位についても同様とする.
  4. 定義2と定義3で定義された数を,一般に十分の一数(Nombres de Disme,Thiendetalen)と言う.

(PP.69-70,6.スティブンの『十分の一法』,第2章10進法と10進小数,『小数と対数の発見』)
そもそも10進法はイスラム社会で発展した考え方で、スティブン以前に、サマルカンド天文学者ジャシムード・アル=カーシー(1429没)がいたのであった。

これで日本人の古来の色認識が世界史的に見て、、、、、、、、如何に画期的であったかが、わかる。
似たような二次形式、、、、を持っているからである。
実は「文化的に遅れている」ことは、世界史的に見れば、不利なことではなかったのだ。

ここでようやく『確率の出現』を待つ準備が整うのである。

フラカストロが言っているように、「第一と呼ばれる」性質は「あらゆるものを生成し変化させる。ところが、第二と呼ばれる性質、すなわち光や匂い、味、音は互いに作用するのではなく、単に感覚を刺激するだけである」(ibid.,Ch.vi)

P.48,第三章臆見,『確率の出現』

まさにガザーリーの言う「味わう者」以外の何物でもない。
だからこそ、この著者は理解に苦しむ。

しるしとプロバビリティーのつながりは、アリストテレス的である。

P.49,同前

もちろん、違う。続く、

「しるし」はしかし、ルネサンス期に独自の使われ方をされており、それは現代の人々には奇妙で異質なものである。

P.49,同前

も、もちろん、違う。「現代の人々」ではなく「キリスト教文化遺産を受けて近代化したヨーロッパ人」である。なぜなら、ルネサンスが実は、イスラム文化の決定的な影響のもとにあったからである。

読まないわけにはゆかなくなってきた。