「戦後」に歴史あり

これは非常に考えさせられる意見であって、というのは、彼女が言っているのは、ダブル・エフェクトだからなんだね。

つまり、今起こっているのは、(相対主義に陥りがちなのだけれど—いつでも、混乱は、相対主義者=トリックスターから起こされる。)、近代国家建設における、宗教的遺産なんだ。

近代国家は、少なくともヨーロッパにおいては、独立国家の「善きキリスト教倫理の確立」のもと、行われた。それは単純に、ルネサンスの延長にある(したがって、宗教改革の延長にある)。
カトリック支配である以前に、イスラム神学の卒業だったことが鍵である。
そのような調和と融合において、(独立した)「存在」が認識上に確立したのだ(したがって、デカルトは、近代人ではなく、いまだそれらが一体となった実在論者である。デカルト心身二元論はあまりに有名になりすぎたのであるが、実のところ結局一元に帰着するのは、そういった理由である。デカルトは、ピュタゴラス学団の神=数、或いは、アリストテレスの神=論理を発展させて、神議論を説いたに過ぎない。ただし、デカルトの眼目は、アリストテレスが説明したソクラテス的科学である。したがって、媒介を重視する。これが明晰であれば、「神の義は成る」と言ったに過ぎない。デカルト心身二元論もこの意味で、明晰に説明されることが単純化される嫌いがあるが、媒介的である。デカルトの媒介がデカルトの説く論理のことであるからだ。これを「唯物論」と呼ぶのは、近代的な誤謬である)。

このような経緯を持つ近代国家を挟んで、技術的に、ダブル・エフェクトが問われる。
これがキリスト教倫理から(ウィトゲンシュタイン以降の、或いは、ゲーデル以降の)論理学(乃至、フィリッパ・フット以降の徳哲学やスマリヤンの様相論理)に落とし込まれて、法哲学を構成してきたのが、戦後社会である(わかりやすくは、「正義論」以降の、アマルティア・セン)。

だから、「戦後派」(括弧つき。実は、理想的な戦前を目指す、戦前派乃至 「悔恨共同体」と自己規定した実のところ旧東側陣営のシンパ。要は戦後リベラルである)は、どっちもどっち論で相対化する。

要は、ハーバート・ハート以降の西側、就中、イギリス、アメリカの法哲学を受容してきたかが問われている。
日本は、もともと、反知的エリートが好まれる。陽明主義であり、生活重視である。
もちろん、私も、しがない小市民なので、生活を最重視しているが、上で言ったのは習合思想的な道徳哲学として、である。要は、万事、「素朴」であることが好まれる。

私の生活も「素朴」な暴力にまことに悩ましいが、国際社会は「素朴」では、絶対にまわらない。