さきの最高裁の判断で、法曹が古典的に立脚することのリスクが顕在化されたよね。

つまり、心身二元論は、いまだに争点なんだ。

デカルトの画期は、「心身二元論を主張した」ことではなくて、ソクラテス的科学主義の彼の眼目は「それでも、(なお)心身は一元的に統一される」ことだったんだよ。かれの「科学」は「媒介を持つ」ことと「経緯を持つ」ことに集約される。

これは、行為の意味体系である「法」に影響がある。

 

身体的性と「性自認」が違うとき、果たして現代的な「心身二元論」に立つだろうか。
いや、違う。

これは明治以来の「心理主義」の伝統に沿うならば、「知能」を見るとわかりやすい。
脳を半壊した人の知能失われるか。
実は、脳の別の部が代替できる(発達する)。
問題はこれからである。
これを以て、「脳は一元的である」と判断できるか。

これが、「性自認」の問題である。
性自認」とは(心身が二元的であることを前提として)脳が一元的であることを主張する。

しかし、先の東大の哲学者は、それを揶揄ったのだ(もちろん、「揶揄う」ことの道義的な是非は問われる。なにしろ、相手が居る)。
「性欲」と「性自認」は、脳の中で、どう処理されているのか。

 

さて、果たして本当に、「心身二元論」は信奉するに足るだろうか?
結局、私たちは、まるでデカルトのように、行為を主体へ一元的に帰着させなければならないのだ(なお、デカルトは、近世的な宗教観の中で生きていたのであって、ルネサンスを代表しても、近代人ではない)。


ちなみに、「トイレ問題」は近代人の「ペルソナ」と「性の秘匿」の交錯(したがって、錯誤)の問題で、最高裁に意見を付した裁判官たちには、人権問題としては、解けていない。彼は「(検事の)訴訟経済乃至(検事組織の)行政経済」に言及しただけで。

私が最高裁判断に不満があることを言っているのではない。おそらくそれを解くには、高度な形式論理(様相論理)に依拠したうえで、二段階にわけて(繰り入れて)、解くのが妥当ではないかと思っている。問題は、それが、社会的理解に資さないことだ。
おそらく、裁判官たちは、医療事実に対する関心以上の関心を持って、そんなことを想像すらしたことがないことだ。彼らは古典的なのである。