習慣「実は」

なんか本当に馬鹿馬鹿しい。

そもそも揉める必要がないから。

普通に、時系列に沿って、当たり前のことをやればいいだけのことが、「当たり前」を認識した途端にそれが「足枷」となって嫌がらせに利用されるんだから、プロの仕業じゃねえか。ふつうそこまで考えないから。

本当に、嫌がらせのための嫌がらせで、ただの徒労だからこそ精神を制圧にするには効果的(だから、「魂の殺人」と言われるレイプと一緒。非合理的だからこそ合理的に、それ自体が目的)で、それが組織統制の要諦なんて、その手のプロのやることだよ。


この国の組織は、基本的に、人権なんて観念を欠いているから、学校の頃に教えないとダメなんだよ。

民主主義の教育は、明治の頃も(これは本当に熱心に教えられて、成年学校、青年学校を設けてちゃんと教えていた、意外だけれどね。「村会」「郡会」等が民主主義の中心だった時代。)、敗戦後でも、教えていたんだけれど(「国会」が民主主義の中心になった時代☟note)。

「人権」だけは頑なに教えないんだよ。
ようやくハラスメント法制が整備されて、事情が変わってきたんだけれど(それくらい冗談じゃなく、真面目に「革命的」な出来事で、画期的なんだけれど)、それでもまだこういったことが、公然と起きるからね。

逆に驚くよね。
やっぱり教育って大事で、教えられていないことは基本的に分からないし、判断は自然と避けられる。訓練されていないことは、できない。

教育と訓練は、公示性と公信性を伴いつつ、規範力を以て、許可要件(認識の許可、行為の許可。許可=禁止の解除)を充たしているんだ。


☞note

余談だけれど、これも実は、「マルクス主義史観」の一環(「講座派」の歴史観)で、戦前否定の文脈にあることがわかるよね。

歴史を考える上では、マルクス主義って、本当に弊害だらけなのが、わかるよね。

民主主義って、やはり、動員機序と決定機序(権力機序)があって、戦前は、「愛国」と「普通選挙」で標語的にはせめぎ合っていたけれど、そんなに明確に区別できるものでもない。「側面」(を名付けた)。

「愛国」で意味としがちなのは、

  1. 当初は「普通選挙」と対抗していた
  2. やがて、普通選挙を支持するようになった

ここに「村会」「郡会」と「天皇」を入れるとわかりやすい。
つまり、地方からの民主主義のことで、それが「我田引鉄」(金融資本、産業資本)と「在郷軍人会」(陸軍=国軍※)と「大政翼賛会」(実のところ、商業資本※)によって変わってゆくのだが、それ以前から、地方の民主主義と「天皇」は、観念上、中央政府の権力への対抗のため、密接なかかわりを持つ(反中央にして、反体制ではない—庶民出の美濃部がけん引した、数千万国民総旗本主義の「旗本民主主義」と異なる、当時にあって最高の知的属性のひとつである藩医の息子上杉がけん引した、ドイツにおける観念的な連邦主義の色彩を持つ、「一揆民主主義」)。
庶民出(山間部の寒村出身)の美濃部の夢は「旗本」(政府に参与できるエリート身分)だというね。わかりやすい。上杉は最初から士族なんだもの(平地の田園地帯出身。大聖寺藩って、要は、一向一揆が盛んで※、京都から一目置かれていた地方にある。この間の合同法要で、傘を持つ係をしていた。)、藩学である朱子学(一部、陽明学)から始まってやたら衒学的なんだけれど、ドイツが合っていたんだろうね。地方政治行政の現場の視察が利いた。やっぱり地方出だから。

※これは「ゴー・ストップ事件」がわかりやすい。大衆の代表は軍人であって、官憲ではない。これが大阪と言う、当時「日本一の大都会」(でかつ、江戸~東京の向こうを張る地方都市)で起きたことも鍵となる。この点、戦後の警察組織は、組織編制からしてそうであるが、地方に溶け込む努力から始めた。

大政翼賛会と商業資本の関係がよくわからないかもしれないけれど、今で言う、「SDG's」とまったく一緒だと思う。イメージも(「乗り遅れるな」という、実は、ライトなイメージ)。実は、戦前も戦後も、大衆の意識に関しては、大して違いはないというね。これ本当。

一向一揆に関しては、もはや、呉座勇一の研究と諸考古学の発見を待つしかない。

続編、期待。


むしろ、「大政翼賛会」で躓くのは、「巨魁」平沼騏一郎で、この生粋のエリートは、イギリス学派なんだね。ただし、ごりごりの保守。この「保守」が、イギリスの政治史を知らないと、厳しい。山縣有朋もそうだけれど、アーサー・ウェルズリーからロイド・ジョージの時代なんだろうね。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

ここでは、この程度の簡単な理解でよいと思います。

 

初代ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵デビッド・ロイド・ジョージ
                          1863年01月17日 - 1945年03月26日
平沼 騏一郎       1867年10月25日 - 1952年08月22日

実は、だいたい同じ世代と言うね。なお、

原 敬                  1856年03月15日 - 1921年11月04日
児玉源太郎        1852年04月14日 - 1906年07月23日

あの2人の年の差は、この2人の年の差と変わらないという。
こうやって、ちょっとずつ、時代は進んできたんだね。
後の大衆の側では「ゴー・ストップ事件」(1933年・昭和8年)だけれど、実は、それまでに、中央では、軍・内調和が図られていたというね。

 

「講座派史観」なんて役に立たないんだよ。

松本清張は偉いけれど。