そういえば、才能とか努力とかいう話については渡辺明のこういう話がありますよね。 https://t.co/rs24w0jCek pic.twitter.com/mHPwJCuBmq
— Kohta Ishikawa (@_kohta) December 20, 2023
私には才能とか努力はわからないけれど、この年になってつくづく思うのは、
- ちゃんと生きようと思えば、人生は毎日がすごく忙しい
- ちゃんと忙しく生きられることが、生活にとって大切である
だから、変な話なんだけれど、最近はテレビを見直している。「ながら視聴」ってネットで出来ない。ストリーミングもあるけれど。生活時間に埋没しやすいのはテレビなんだよね。スイッチひとつで「時間がかからない」というのが、「一方的」と並んで、テレビの大きな特性かもしれない。
才能があるにせよ、ないにせよ、その中で発揮されてゆく(発揮されずにいる)から、「ちゃんと忙しくできる」が人生の最初の目標じゃないかと思う。
「昭和」の時代の後半から末期にかけては、実は、この規範意識が一番緩くなった時期じゃないかと思う。桂春団治や、『難波恋しぐれ』で歌う「芸の為なら女房を」じゃないけれど、破綻した人格或いは生活が才能の名の下で羨ましがられたことがあった。本当は、「仕方がない」ことはあっても、羨ましがるようなことでない。
社会の内部でコミュニタス(半構造的)な関わりにおいて惹かれることがある。自分を「ここではないどこか」へ連れて行ってくれるような錯覚が心地よい。しかし、管理された時間の中での、ささやかな自由だ。才能とは、その自由の変数かもしれない。システム内部で決められないことだ。でも、僕らに表現が許されているのは、自由の方であって、才能はその表出に過ぎない。「惹かれる」ことと「そうである」ことは混同できないが、それでも誰にも構造的に自由がある。
その中で少しでも満足感を幸福感に替えて生きて往ければよいと思う。
親が子に望むのは、衡平な感覚の下でのそこそこな人生である。一般的な標準を示す中で自由を発揮してほしいと願う。それがマイナスであれば、その子の標準を下げるし、それがプラスであれば、その子の標準を上げるかもしれない。衡平な感覚の下でのそこそこの人生を望んでいるからである。
markovproperty.hatenadiary.com
どこか遠くへ連れ去るヒーローではないが、少し先へ先導するリーダーはいつだって近くにいる。モラルリーダーかもしれないし、モラールリーダーかも知れない。ロールモデルかもしれない。いずれかはわからないが、親と家庭の果たす役割や自ずと与える影響と親の責任もあるはずだ。
テレビが反意思的な媒体であることは鍵である。そのような管理された生活時間はその選択が意志的であるがゆえに義務と関わって主観的要素でありつつも(義務感として受け止められる。)、反意思的に遂行されるのであるから、「反意思的遂行」を評価できる態度を身に付けて欲しいとは思う。
親が「四の五の言ってねえで、やれ」と言うのは、そのためである。
それは「努力」かもしれないが、それが生活である。
決して他人は待ってくれない。その厳しさは、子どもに教える責任がある。
ラッキーとオーディナリーを混同してはならない。ラッキーは貯蓄しておきなさい。オーディナリーに生活をまわすことを考えなさい。それがコストである。
私には数学で遊ぶことができればそれで満足である。私の中では世界が無限にひろがっている。それが満たされればそれが幸福である。幸福というのは、決して、物理的制約から逃れられることではない。
どのような科学にも芸術にも、或いは運動にも、誰かに才能が認められるかもしれない。しかし、私に許されているのは、自由だけである。その意味で、どれだけ神聖に感じられても、どれだけ普遍的に意味づけられても、それらは社会的事実に過ぎない。人が居て初めて意味がある。私の人生はその一部である。
もし私に子どもが居たら、伝えたいことは、みっつである。結果に右往左往せずに十分適度に忙しく生き続けなさい。そのために身体を大事にしなさい。平凡な満足感に幸福を感じられるような衡平な人格を身に付けなさい。
たったそれだけである。
「女性が男性と同じ程度の怒りの感情を表現するとき、その怒りはたいてい、その女性の不安定な心の印として解釈されてしまう。一般的に女性は感情的であると信じられており、この固定観念こそが女性たちの感情を妥当でないものとするのに利用されているのである」(『管理される心』世界思想社、P198) pic.twitter.com/bOE6quEy2h
— 本ノ猪 (@honnoinosisi555) December 20, 2023
親の子育ては、最終的に、親と子が社会的に適切で対等な関係になることが目的です。
かつて社会が男性だけのものであったとき、女性の怒りは非社会的に意味づけられました。親子が同じ社会に生きる以上、感情は、共有すべきか、共有すべきでないかのいずれかになります。子が親に正当に怒る権利は付与されています。それは我儘ではないし、甘えでもない。甘えに感じられるとしたら、上下関係しか措定できていないのです。
対等な関係はあり得るのです。
親にも成熟と教育が必要なのです。
ソフトウェア開発にまつわるいろいろな理論は「人間は飽きる」というとても重要な要素をないことにしてるものが多い気がする
— naoya (@naoya_ito) December 20, 2023
至言。
たった1本の直線を引く作業。教えれば10秒。10分支払って自ら辿り着いた。きっと忘れることはないだろう。
— 吉原 修一郎 (@yoshihara_math) December 22, 2023
数学は時間がかかるね。 pic.twitter.com/X43RPlulST
こういうことを教えてくれる先生はすごく良い先生だと思う。
文学に興味ある学生が少ないのか、私のゼミは毎年不人気で、小説もほとんど読んだことのない人が他のゼミ落ちてうちに来たりします。でも今日そんな受講生の1人が「今回の課題で生まれて初めて長編小説を読んだが、面白すぎて一気に読んだ」と言っていて、このゼミやってて良かったなあと心から思った
— Sho Sugawara (@sugawa_rasho) December 22, 2023
数学だけに限らない。こちらの先生も同じことを言っていると思う。
忙しい毎日で、気分が大きくなっている時期なら、いろいろに興味が分散しがちで、埋没コストをかけにくいのだけれど、そうじゃないよってことを、なんていうか、「わかる」というか、一種の素直さというか、そうやって取り組める態度を自然と自分の中に定着させてほしいってのが、あるよねぇ。