質問。
高校1年です。自分は法律に興味があり法学部に進学したいのですが、親や先生などが理系の方が就職に有利とか、文系は役に立たないなどといって理系選択をすすめてきます。まわりの友人も文系より理系を偉くみる人が多いように思います。興味を理由に学部を選ぶのはよくないですか?
なるほど、
- 高校1年です。
- 自分は法律に興味があり法学部に進学したい
- 親や先生などが
- 理系の方が就職に有利とか、
- 文系は役に立たない
- まわりの友人も文系より理系を偉くみる人が多いように思います。
- 興味を理由に学部を選ぶのはよくないですか?
ということらしい。なにから答えてよいかはなかなか難しいのだけれど、
- 来年度の進級のための、文理選択の希望を届出なければならない
- 主体間で交わされる明示的な約束事として、社会問題或いは社会構成に技術的な解決を示すことで、社会参加することに興味がある
- 一定の社会経験を経た、自分の将来に一定の責任を有している、或いは親しい、社会人が
- 大学進学を大学卒業の契機として位置づけ、大学卒業後の進路から具体的な案を示し、その中で、科学技術立国に対する社会評価を世相として反映させている
- 日本の雇用環境において求められる人材像を提示し、汎用的な能力の向上を示唆している
- まわりの同級生もそのような世相に敏感で、自分たちの部分社会で有利な地位を獲得しようと、評判を形成している
- 現在の(自分の成長段階において)自分が有している情報から自然と向けられる関心及び心的傾向に基づきその後の(80年にわたる、雇用年数に限って言えば、40乃至50年間の)社会生活の基礎(生活の足場)・基盤(キャリアの中枢回路)を設置すべき高々4年間の軌道をスイッチするのは、大学院へ進学するにせよ就職するにせよ、その後の進路に関して不可逆な後悔を(不可避的に)生じますか
【メモ】
- 「学際」「隣接」をほぼ意識していない
- キャリアパスを意識しているが、よくわからない
- 自己の成長段階に関する知識が欠乏している
- それに関して、「大人」が経済的自由と精神的自由の双方から衡平に判断されるという法学的知識が足りない
- 具体的には、自己支配が生活時間に落とし込まれておらず、主体的に人生を設計する機会を得ていない
- そのため、人格の陶冶が、強制や矯正のレベルにとどまっている
ぶっちゃけ次は、
- 私が常にお薦めする「ザ・日本の基準」日本大学の理系学部と文系学部の進路先総覧(先輩の就活体験記)と、自分が(現時点で)本当は希望している進学先のそれとの比較。「まずはお父さんが作ってみせるから、自分の進路先の希望があるんだったら、自分で作ってみよう。わからなかったら教えるから。どこか見に行きたいんだったら、連れて行ってもいいし。とにかく、自分で始めて見ないと」って感じ?「自分でやれ」なんて一言だけ言ってもわからんわね。子どもなんだから。そういうときだけ都合よく「対等」扱いしたら無責任やわね。弱いもん相手にいきがっているだけで。
- そもそも「理系」「文系」がなぜ生まれたのか
と東大入試問題から考える、大学教育で求められる考え方(☞与那覇「論旨」と「趣旨」の違いから) - 「学際」、「隣接」を考えるうえで、前回の議論の延長に(「定量」「定性」の理解を目標に据えて)、
がぶっちゃけ来るわけです(或いは「数理政治学」)。
経済学に関して、「理系」との選択を学んでいる初学者(未満)ならば、ぶっちゃけ、これがお薦め。とにかく、シンプルでよい。何が言いたいか。「文系」へ進学しても、ぶっちゃけ教養の数学を採る必要があるでしょってこと。
経済学ってね、一番最初が一番難しいんだよ。無差別曲線って、ラムダ計算なんだよね。新品ないんだね。でも中古で40円で買えるって。一通り高校数学を学んだあとにやると、ちょうどよい。偏微分のあとに全微分へ行く。ラムダ計算にたどり着くの、大変だよ。そんなところは無視して、上の、さらっと読める参考書を、高校生が読むには「読物」として、あぁ、「文系」って「理系」的な何かしら要るかもねって具体的なイメージが持てたらよい。
- そのうえで、言語学に関わってくるのだけれど、「LGBTQのトイレ問題」「熊の駆除騒動(動物愛護法の成立経緯)」「大麻グミ騒動」の意味論を考える—なぜ問題化するのか。
- 最期に、法学系の資格並びにそれに関連する資格一覧(資格名、特徴、標準的な必要勉強量・時間、就職貢献度)
くらいかな?と思う。民法、刑法、或いは、知財法だとシラバスか職業訓練に近くなっちゃうかなと思う。「なぜ、「文系」なのか」に焦点を合わせるには、「「文系的な何かしら」とは何なのか」(「「法学的な何かしら」とは何なのか」)を解明しなければならない。
本質的には、相談者が成長段階にあって、先の予想ができない中で、主体的に自己の責任を獲得してゆく営為を身に付ける必要があるってことだから、「主体」と「能動性」に焦点を当てるべきだと思うけれど(「アート」の範疇。)、彼が脳の表面で飢えているのは、知識だからね。具体的に与える必要もある(「サイエンス」の範疇)。
結局、高校時代に身に付けられる汎用的な能力って何なのか。
数学か、英語か、国語か。
生活態度です。これは社会に生きる限り、一生を左右します。
生活時間の中に、適切にタクティクスを設定するのが、キャリア・デザインだと思います。その前提に、人権を理解し、主体を獲得する必要があり、そのために、「先を見通す予知能力」の代わりに「その先の評価を都度正しく期待できる生活の営為とその生活に対する責任」が求められるとき、これを「生活態度」と言います。
情報を獲得したら、何かしらを見通すのではなく、期待するのです。自分自身の生活に対して。それを自己の責任の下に、能動的に〈私〉に働きかけるのが主体です。
高校3年間の生活で、〈私〉の核を獲得しなければなりません。
それはまだ不安定です。また、実際に何がしたいかなんて、いくつになったって、わかりません。わかるはずがありません。
しかし、悩まずして、そのように生活することができる。それが大事です。
その後は、大学のオリエンテーリングになるのだけれど、いつも言うように、社会関係の発展期において、それから形成されるにせよ、まだまだ不安定な自我の足元を見られて、
- 性被害
- 宗教被害
- 政治被害
- その他
に、サークル活動、夜の街での会食、それ以外でも友人との関係を通じて遭いやすいので、よくよく気を付ける必要がある。
大学までは、大人が関係を制限してくれる。大学からは、自らが、(或いは、泣く泣く、或いは、揉めて怒り交じりに、或いは、呆れ、或いは、嘆息し、或いは、冷静に、或いは、軽蔑して、或いは、逃げ出すように、或いは、無関心に自然と、或いは、社会的能力の成長の赴くままに)関係を整理して、望ましい関係に帰属してゆくこととなります。
「安易について行った」と言うと責任転嫁になっていますね。申し訳ございません。
【追記】
自分自身に振りかえってみても、おおいに反省しなければならない。
- 人使い(そもそも他人を「使う」とは。悪口やマウントを含む。)
- 1以外で関係トラブルに関わる人格難(とにかく、嘘つきは徹底的に嫌われている。「ありがとう」「ごめんなさい」を言えない。距離感を間違える)
- 金遣い(少額でも貸し借り)
- 時間管理(相手の時間を奪う)
正直なことを言うと、年齢を重ねると、当たり前と言えば当たり前だが、「上下関係がある」方が楽に感じることが多い。
- 無駄に経験を重ねて知識がそれなりにあるから、どうしても対等な話が難しい。
- 体力的に厳しく感じることが増える。
- 意外なことだが、若い人ほど、相手を見て態度を変えることが多い。
自分がいじめられないように「うまくたちまわろう」と学校にいる時からの習い性になっているのか「自分はそれがそつなく熟せていた」と勘違いしているのだろうし、とにかく横柄な人間が非常に多い(それはかつての自分の反省する所だ)。それは全部見透かされていると思った方がよいし、反感を間違いなく買っている。 - 会社は本当に多様な人間の集まりなので、思った以上に調整ができない。
自分は間違いなく窓際社員(どころかリストラ候補の「退職待ち」王手)なんだけれど、自分以外でもさんざんな目に遭っている人は居て、4に関係するけれど、自己防衛しているって場合も散見されるんだよね(じゃないと本当に潰される)。なぜ、そもそも「窓際社員」なのかってのがあるけれど、「リスク社員」扱いされて、キャパを超える難題や不適格な難題を押し付けられて逃げ回るのがせいぜいで(不健全な意味で「使えない」からこれは正当な防御反応としても)、逃げ回っていたのが反対にたらいまわしにされるようになって、適当なスキルをろくに身に付けていないから(むしろ身に付けないことが事実上望まれ、或いは強要されるから)、結局健全な意味でも「使えない」社員になってしまったからで、間違いなく持てあまされている(癖に、変な知識だけはある)。これがおおむね客観的な評価であると思う。
だから親って大事で、子にとっては社会機能そのものだから、子の固有な成長に応じつつ、社会に即して、常識と標準を示す必要があると強く思う(子の成長を考えると、子がそれに反発するのも健全であると思う)。より広い社会に出るためのチャンネルであり、足場にならないといけないのじゃないかと思う。親も一人の人間であるし、家族も多様な人格を抱えた一つの社会であるから、親って大変だよね。
親には親の取り巻く環境があって、自身の人格を原器に、そう育ってきたからね。
親にしたところで、「子育て」という「未知の社会」を経験するわけだから、そこでわかってくることもあるだろうしね。
だから自分は、資産形成と世代を超える家族文化を重視するんだけれど※。
少しずつ足場を固めながらになるから、健全な上昇志向は要ると思うけれど、それは社会の標準との距離を測った上での話になる。
※「重視する」というのは「注意深くある」ということであって、それに固執することとは反対に、学校教育に家庭教育からのシェルター機能を期待する(反対に、学校教育の浸食からのシェルターを家庭に期待する。相互的であるが不均衡)。そうすると、より広い社会や普遍性に拓かれていなければならない。近代社会に生きる以上、自由と社会を巡って、リベラリズムの自己実現に巻き込まれざるを得ない。