濱中派 VS 橘派

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大学無償化で唯一説得的に感じたのは、

やはりこの学術書で、著者は、「高学歴社会への到達速度の差」を挙げ、それが急速に行われると、「学歴不要論」をはじめ、様々な学歴に対するネガティブな意見が増えることを実証した研究に沿って、日本もそうではないかと意見を述べている。

この著者自身はもちろん大学無償化について何も言っていないが、私もなんとなくこうではないかと以前から感じていたのもあって、大学無償化へのネガティブな反応はほとんどこれで説明がつくのではないかと思っている。

そして何が起きるかというと、おそらく二極化である。それは、AO試験など一般入試以外の選抜方法の導入とは、必ずしも関係がないことが、日経新聞の記事からうかがえる。エール大学の卒業生を知っているだろうか。あの、世界的に有名な、ブッシュ・ジュニアである。エールがそれで評価を落としたとは聞かない。関係がないのは、日本ならば、慶応大学もいっしょで、幼稚舎出身者が三田会の理事を務めたからと言って、慶応の評価が落ちたことはない。若干落ちたのはむしろ早稲田である。

そういう傾向が強まることが考えられる。

ただ、国の予算のリソースを大学無償化に重点的に配分することが、日本の教育制度にとってどれだけ優れているかはわからないのは、初等教育中等教育の教員不足に供給の限界が見えているからだ。ここがボトルネックになるかもしれない。

日本が「高学歴社会の到達」を目指しているようであることはうかがえる。
それは日本社会を少し変えるかもしれない。

  1. 大学教育と高校教育の質の違いから、所謂「安心社会」から所謂「信頼社会」への移行を多少後押しするかもしれない
  2. 有形、無形※のキャリア・デザイン教育が進む
    ※「無形」とは、渋谷教育学園渋谷中高(東京)の紹介にあるとおり、卒業生が来校しメンターとなっている例で、これは、濱中を引くならば、ロールモデルである。これが(主観的な観察ながら)効果的とは興味深い。
  3. 高校への大学教育(就中、大学数学)の前倒しの効果により(直接的には、受験数学を原理から基礎づけ直し、問題理解のリーチを多くとることで、より進学に有利にするためだが、大学数学を体系的に学ぶ機会を持つことで同内容の自学習以上の教育訓練が行われることが期待され)、進学以降の学習のリーチも伸びやすいことが期待されることから、2の効果(進学以降の具体的なケーススタディ)と相まって、(一部で指摘される、)理科三類から医学部へのコース選択(の社会的損失乃至社会的浪費)に、多少の傾斜がつくかもしれない(理科1類の選択を希望して研究者を目標とする高校生及び受験生が多少増える傾向を帯びるかもしれない)。大学へ行って、バーンアウトなんかするんじゃない。
  4. 適切な自信の醸成には、適切なアイデンティティの形成を促す感情教育中等教育期間に必要で、キャリアデザイン(教育)に含まれているべきである。それには人権教育が基礎づけられていなければならない。このとき、孤立傾向と個人主義は、分けて考えられるべきである。孤立傾向は資質の発達と成長環境にもよるが、個人主義は社会規範であって、近代社会に於いては、身に付けるべきことである。
  5. 今を生きる常識として教えないわけにはゆかない。

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    今や、お笑いにも、文化資本の影響が。

さて、

橘派と濱中派で二分されてもいいくらいなんだけれど、ポジションが違うか。橘は別に研究者じゃないしね。濱中には社会学者の矜持がある。「社会は社会が生み出す」。これには賛同しやすい。学校制度の目的は「社会(成員)の再生産」にある。

その期待は若干怪しいという話。

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どれだけ書く練習をしても上手くならない。駄文だ

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むしろ、こういったことを、ドリル形式で、多く熟した方がよいのかもしれない。
〈ナラティブを作る〉とは、抽象空間の内容を説明する際に構成的に説明することならば、具体例を以て展開するときに、過不足なく具体例を挙げなければならないことかもしれない。
問題例で言うならば、帳簿上は、元・先それぞれに貸し・借りがある4象限の収支が合うことを、終・始の経緯を以て説明する際に、経路問題に置き換えるならば、適当に選べる4通りの経路の始点から残りの3通りの経路の終点まで、何通りの場合の数が考えられるかであるが、経緯と経路が異なると謂うのは、経緯とは主体の行為に関することで在り経路とは延長に関することとの違いがあり、帳簿はあくまで対照的で、元の貸しと先の借りが等しいことと、独立して存在する算術上の(分配法則や結合法則などの)加法定理に従うことであって、このとき経路とは或る主体の行為に際しての見方を与えることに過ぎないとき、主体内部で処理されることを説明できなければならない。
要は、下手すれば、冗長になるのだ。図示すれば、一見してわかる。「図示する」ことを諄諄と適切に説明できなければならない。反対から言えば、図解(この場合、表の理解である表解)が措定されて初めて読解できるのだ。読解ができて初めて(それを二次利用した)「読解」の説明ができるのであった。したがって、適切な省略の技術であったようだ。大抵はこれを反対に考えると思う。真実の説明方法が最初から唯一通りに定まると考え、それを探すクイズだと思うのである。

句読点の適当な打ち方を知ろうと、私も購入したけれど。
原理的にそういう方法がないことが明らかなのに、それがあるかのように書いているのはどうかと思う。
これは「マナー講座」くらいの感覚で読んだ方がよい。つまり、ちょっと知った人から身振りを安直に学ぶといった体である。要は、儀式に何を着て行ったらよいかを教えてもらうときに、上級の身だしなみはできないが何とかしたいのだが、講師の方は断定口調であるようなことだ。困るのは、それきりのことが、正しい教科書のように思われることである。実際にそういう人が居る。

態度ばかりは偉そうな初級者用の安直本であることを忘れてはならない。便利使いするだけである。