21世紀の今、ニーチェは「虚無主義」なのではなく「ギリシャ主義」(19世紀ドイツの「ギリシャ病」)と理解されるのが、正当である。

すごいなと思った。
すなわち、この30年前ーすなわち一世代ー前のこの専門的な(大学院レベルの基礎)知識は、30年後、ほぼ役に立たない欺瞞ということだ。
「ほぼ役に立たない」だけではなく「欺瞞」であるところが「すごい」のだ。
こんな程度のものが30年前には「再興の知識」として権威を以てまかり通っていたのである。これがすごくなくて、何だろう。

つまり、ニーチェを「虚無主義」と教育されるのは「義務教育レベル」の教養であって、極めてアンチョコ的なダイジェストで在り、本当は、「ギリシャ主義」(19世紀ドイツの「ギリシャ病」)なのであった。ニーチェはその主役なのである。
そして、結論を言えば、ヴェーバーは、ルネサンスが「ヘブライズム」「ヘラニズム」「ゲルマニズム」の調和であるならば、その延長にある近代社会が、「歴史(法学)」と「社会(進化論)」を以て、「神(唯一の善の主体)」を放棄したとき(だから、「汎神論」が、近代への過渡的役割を果たす。)、新たな建国の物語を提言したのだ。禁欲主義はヘブライズムの継承であるのに過ぎない。

2年後(1999年)にはすでにこれが出されている。
そして今、両者を見比べると、後者に軍配が上がっているのであった。
理由はおそらく、マルクスなど歯牙にもかけていないからである。

2人のコメント比較する。

珈琲
★★★★★知の不確実性の苦悩と「価値自由」
2019年4月24日に日本でレビュー済み
 1997年刊行というから、すでに20年以上も前の新書であるが、ヴェーバーについての解説として読んだ。
 ヴェーバー(1864-1920)は、マルクス(1818-1883)より半世紀近く後の思想家・社会科学者であり、マルクスから多くのことを学びつつも社会主義共産主義に賛同せず資本主義を妥当とし、さらにヨーロッパ、とくにキリスト教プロテスタンティズムの精神・倫理が資本主義の経済を推進してきたとし、ヨーロッパのキリスト教精神の優越性を説いた人物とされてきた。この本の著者山之内靖は、これらを誤解で浅薄な理解だとする。
 社会科学は、思考する人間の価値判断を前提とするため、自然科学のような客観的中立性は不可能であり、知の不確実性をともなわざるを得ない。そのことをただしく自覚することが社会科学における「価値自由」の意味である。宗教的にこれを表現すると、社会科学の理解には「神々の闘争」をともない、主観も感情も繰り込んで思考せざるを得ず、その意味で「神学としての科学(=近代の社会科学)の脱構築」が必要だとする。
 経済学の始祖たるアダム・スミスは、人間の行動原理を人間の利己心に一元化し、経済活動を固定的・客観的にとらえた。マルクスは、現在存在する資本主義は強固なものであるが、内在的に変化し崩壊するものであるとして、対象を固定化してとらえる近代知を否定した。しかしマルクスは、経済構造の変化に法則をみる点で、まだ近代知の枠内にとどまった。ヴェーバーは、アダム・スミスが説く市場メカニズムがそれ自体として存立・機能できるわけでなく、それを運用する人間の倫理・道徳的動機付けを必要とする、とする。すなわちヴェーバーは、経済的行為の理論として、それにかかわる人間の社会的行為の内面的動機付けに注目したのである。
この社会的行為の内面的動機付けとしてヴェーバーが取り上げたのが、ヨーロッパのプロテスタンティズムであり、とくに宗教改革カルヴァン派ピューリタンに代表される倫理であった。カルヴァンは、神のみが人間の行動・運命を決定するのであり、被造物者たる人間には一切の決定権がなく、人間は救済されるためにひたすら神の意に叶うべく「現世内的禁欲」を守り「神の道具」となって行動せざるを得ない。主観的に魂の救済を求めて宗教的救済へと向って行くこの激しい情熱が、意図せざる形で客観的に社会的・政治的・経済的な秩序の形成に向かう。こうして勤勉に働くことで人間は豊かになり、秩序のなかでひとまずの安定を得るが、そのように秩序付けられた社会では、人々は聖職者の官僚制の檻に閉じ込められて、なおかつ救済されるか否かも不明のままである。運命は不確実性をともない、未来への不安は避けられない。
 このように、ヴェーバーが説く資本主義とそれを支えるプロテスタンティズムは、その経済制度やそれを突き動かす精神について、決して勝ち誇ったり謳歌したり、楽観するものではなく、不確実な運命の力を覚悟せねばならない、というある意味で暗いものである。
 ヴェーバーは、マルクスとともにニーチェから大きな影響を受けたと山之内は言う。そして1864年生まれのヴェーバーの活動期間を、学位を得てハイデルベルク大学教授に就任し、父と激しく衝突して父が旅先で急死してしまう中で『古代農業事情 第2版』を発刊するまでの1897年(33歳)までを第1期、そのショックが契機となって神経症を発病し、大学を辞めイタリアに転地療養し、招待をうけて渡米し『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を発表し、『古代農業事情 第3版』を発刊する1909年(45歳)までを第2期、そして神経症から快癒に向かい、イタリアとイギリスに旅し『経済と社会』、『世界宗教の経済倫理』、『古代ユダヤ教』、『職業としての学問』、『職業としての政治』などを発表し、ミュンヘン大学教授に復帰してまもなく亡くなる1920年(56歳)までを第3期として、思想の展開と深まりを丁寧に追跡している。
 人間の歴史をつき動かしてきた力として、マルクスが説いた「生産力」に加えて、ヴェーバーは「宗教的救済に向かう観念の力」、さらに「身体に源をもつディオニュソス的な力」の3つを説いている。  
社会、とくに経済活動は、単純な生存維持・確保、金銭欲・奢侈への欲望などで理解しきれない要素があることは、私も感覚的に理解するが、ヴェーバーは宗教・倫理・道徳を持ち出して、さらに単純な合理化のイメージでは理解できないディオニュソス的なエネルギーを主張していることが、ヴェーバーの生涯の歩みを背景に解説されている。簡単な内容ではないが、記述は丁寧で良書であると思う。

θ
★★★★☆ ニーチェを軸にした新たなヴェーバー解釈
2016年7月31日に日本でレビュー済み
書名に「マックス・ヴェーバー入門」とあるが、本書で行われているのはヴェーバー概説ではなく、「近代合理主義の讃美者としての既存のヴェーバー解釈を批判し、近代批判者・ポストモダンの先駆としてのヴェーバー解釈の提起」である。
なので本当にマックス・ヴェーバーを知らない人が入門書として読むのはかなりきついだろう。
あえて言えば「再入門」といったところであろうか。

筆者の解釈で重要な役割を占めるのがニーチェとの類似性で、本書では『ツァラトゥストラ』や『悲劇の誕生』の引用が多数なされ、ヴェーバーとの類似性が繰り返し主張されている。
単純な近代讃美者としての解釈が妥当でなさそうだというのは筆者の指摘の通りではないかと思う。
しかし一方で、筆者が「ニーチェヴェーバー親縁性」にこだわりすぎて、そこまで強い論拠があるとも思えないのに「ここも似ている」「ここはこう解釈した方がいいのでは」と半ば自らの説に合わせるための強引な解釈になっている面もやや垣間見える。

筆者がやや強めに解釈を打ち出したのは、既存解釈の批判と刷新の意図があるためかなと思うが、であればなおさら「入門」という感じではなく「上級」に近い。
本当にヴェーバーを知らない人は マックス・ウェーバーを読む (講談社現代新書) などの方がオーソドクスで平易だと思う。
一方の本書は、ヴェーバーをある程度知っている人には大いに楽しめる内容であろう。

ニーチェヴェーバーは似ているけれど、「理由がよくわからない」と言っているだけである。

事実として、世界と日本に19世紀科学革命のバックラッシュとして(ドイツ発アメリカ着の)オカルトが席巻したことと、その前段として、ドイツに「ギリシャ病」が蔓延したことに関連して、マルクスが英雄視されたことは、歴史の一コマを添えたが、マルクス主義のような子供だましが100年も影響を持ったことは、デカルトが70年ヨーロッパを支配した以上に、人間の知的な愚かさと退廃を示して余りない。


漱石全集 第20巻 (別冊) , 夏目漱, 昭和4 - 国立国会図書館デジタルコレクション

夏目漱石は、「明治の文豪」というより、「戦間期の作家」と理解される方が見通しが良くなると思う。
しかも、もう社会的には終わった壮士へのこだわりをもった作家であった。

 

新婦人 : 戯曲 , ズウデルマン 著, 藤沢周次 訳 , 明42.8 - 国立国会図書館デジタルコレクション

ハムレット : 沙翁悲劇 , シェークスピア 著, 土肥春曙, 山岸荷葉 翻案 , 富山房 , 明36.10 - 国立国会図書館デジタルコレクション

川上音二郎 - Wikipedia

川上音二郎が新劇を始めたころに、漱石は小説を書き始めた。

ハムレット : 沙翁悲劇 - 国立国会図書館デジタルコレクション

この世界観が理解されていただろうか?

この世に生きているとかいないかという問いが初めから存在していないのである。
 グレンベックはいう、「一人の人間が自分の 栄光ハイル名誉エーレを確信しているとき、今日命を終わることになっても、彼は自分の縁者たちが住んでいるところに、縁者に会うためにすぐに出かけていくだろう」。死はまことに移行に他ならなかったのである10

10)Kultur und Religion der Germanen.Darmstadt,1980,BdⅡ,S.321f.

P.62,栄光と名誉,第二章死者の国と死生観,『西洋中世の罪と罰

ホッブスは、ローマの歴史を、キリスト教に擁護された王の下に置いた。シェークスピアは、(北欧民話にあった)栄光と名誉が(生者と死者で)地続きだった古ゲルマン的死生観を扱い、恐怖に彩られるキリスト教の死生観への変遷を語った。

「ヘレニズム」「ヘブライズム」「ゲルマニズム」の調和がルネサンスであるとき、キリスト教社会の遺産を受け継いだのが近代社会である。

それは日本国憲法にも受け継がれている(☞エラマンノート)。

夏目漱石は壮士運動が終わった後も、(反カント論に事寄せて)壮士に拘った。
漱石の拘りは、イアーゴーを超える悪への拘りと壮士への拘りである。
あと、もう一つ。
「自然ノ愛ト形式ニ束縛セラレタル愛ヲ計画ス」ることだったろうか。

"Magda" は松井須磨子も舞台で演じたそうで、一般的には評価の高い舞台だったようであるが、漱石は、意外なほど、素っ気ない。この舞台はニーチェから説明されるが、漱石の方はと言えば、やはり「ギリシャ病」に関心がなかったのではないだろうか?

イギリスの戦争の擁護 - Wikipedia

93人のマニフェスト - Wikipedia

ドイツ帝国大学声明 - Wikipedia

ドイツ大学人への返答 - Wikipedia

オーストリア=ハンガリー帝国 - Wikipedia

サラエボ事件 - Wikipedia

帝国主義が連合帝国主義に移行する中で民族主義と対立した。これが現在のロシアの侵略に始まったウクライナ・ロシア戦争の経緯と周囲の反応を彷彿とさせるし、或いは、「連合」制度を考えるうえで、あらためて見直す意義がある。

私たちは、「帝国主義」ならよく聞いたが、「連合王国(連合帝国主義)」(或いは、コモンウェルス)について、ほとんど聞いたことがないからだ。

良くも悪くも、「多民族主義」が統治のマジックから(侵略のバックドアを隠して)戦争を起こしたのだ。

民族主義はいつでも理想主義である、動機を強く要請するのだ(しかし、その動機に支配されない「抜け駆け戦略」が常にゲームに勝利して、安定的な解である—しかし、その勝利はゲーム上に留まり、現実社会には誰も「勝利者」とならない。。。にも関わらず常にゲームの勝利を目指す強い誘引があって或る種の人間の本性として抗えない。それがゲームに過ぎないなら、勝てる可能性があるのだ。プーチン朝、いや長い歴史的経緯を持つ新たなロシア帝国は、—かつてヨーロッパ中を巻き込んだように、現在は、すでに中東に群発して結果として勝利の美酒に酔えない状況を迎えており—再び倒れる蓋然性が高い—ロシアは宗教的背景と統治が調和している※、もっぱら資源というラッキーに頼るが、その限りにおいて堅調な経済を維持する、ヨーロッパの「中東国家」なのだ。しかし、プーチンの死亡待ちであり、その憂鬱な時間を過ごさなければならないかもしれない)。

※日本人にはピンと来ないが、「宗教安全保障」ということは、ある。