dogra magra

 

markovproperty.hatenadiary.com

 

「……脳髄の地獄……ドグラ・マグラ……まだよく解かりませぬが……つまりドンナ事なのですか」 「……それはこの原稿の中に記述されている事柄をお話し致しましたら、幾分、御想像がつきましょう。……すなわちこのドグラ・マグラ物語の中に記述しるされております問題というものは皆、一つ残らず、常識で否定出来ない、わかり易い、興味の深い事柄でありますと同時に、常識以上の常識、科学以上の科学ともいうべき深遠な真理の現われを基礎とした事実ばかりで御座います。

夢野久作 ドグラ・マグラ

 「ドグラ・マグラ」はおそらく「女」でしょう。ただし、「痩せた女」でこれは意味ありげです。

hinative.com

3、Nossa, você emagreceu!

www.porgoru.com

屈折語」の意味がようやくわかった。確かに「膠着語」のようではない。
こういう変化をするのか。

このドグラ・マグラという言葉は、維新前後までは切支丹伴天連キリシタンバテレンの使う幻魔術のことをいった長崎地方の方言だそうで、只今では単に手品とか、トリックとかいう意味にしか使われていない一種の廃語同様の言葉だそうです。

青空文庫ドグラ・マグラ』) 

もとのポルトガル語に「伴天連」などの漢字をあて、その字音によって生じた語

バテレン【伴天連・破天連・頗姪連】|日本国語大辞典|ジャパンナレッジ

九州大学と思わせといて、実は、福岡県立大学じゃねえのかっていう説を唱えてみる。
👇パードレの意味の変化(▽は『お転婆な女の子の意』『素性の悪い女の意』)
九州地方域方言におけるキリシタン語彙pater/padreの受容史についての地理言語学的研究,小川俊輔, 『国文学攷』192・193合併号, pp.15-25,2007年3月九州地方域方言におけるキリシタン語彙pater/padreの受容史についての地理言語学的研究 - 広島大学 学術情報リポジトリ
あれ、また広島県立大学だ(鈴木三重吉)。

なるほど、「耽美派」で、夢野と谷崎潤一郎が並べられるのが、わかった。
「女」だね。
これは突飛ではない。
この当時「女」は近代的な、、、、新思潮の対象だった。

女たちへの妄執、思いやりのない自己中心や自己正当化の世界がここにある。しかし、これを当代の文界に置くと、少し景色が変わって来る。「草枕」や「士」的な余裕派の残滓、「蒲団」「何処へ」などに始まる自然主義的な自己暴露、武者小路実篤に代表されるような白樺派的な強い自我主張、まさに当代の文芸思潮の本流の一翼に位置するものがここにある。

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/3/35299/20141016204849681904/kbs_50_9.pdf

キリスト教社会主義の二潮流がどう拮抗したか。カーライルの影響など。
Wikipediaの該当ページに『ちなみに、dogra magra はポルトガル語で thin lady:痩せた女を意味する』って書き加えてイイ?) 

 小谷野先生に聞いてみたいけれど。聞くときには、25冊読まなアカン。

jun-bungaku.jp

それを性愛から「男」にまで延長したのが三島らしい。しかし、もっと先のハナシだ。
さて、村上春樹である。

物語は人の心を映す自然の鏡のようなものなのです。
(村上春樹/訳者あとがきより)

村上春樹の二元論宣言であるが、これがなんとなく言っているに過ぎないことは、河合(ユング)への傾倒でわかる。マルクス主義法学が席巻した社会的雰囲気を伝えるということでは貴重である。キリスト教を否定するあまり、哲学への理解の根本を欠いて、混迷しているようだが、自覚に乏しいのが特徴だ。〈鏡〉と〈芽〉の区別がついておらず、したがって、言語と存在の区別がつかないのが、「村上文学」である。それでいて、大正期に花開いた日本文学の影響を決定的に受けているようにも見える。
同じモチーフだからだが、それを言語=存在の等式に置き換えて理解しようとする。そうして、有限/無限の問題が統一的に把握され、しかし、日本文学的な『寂寥感』を映し出すだけだ。無知とは自由自在である(ただし、河合に単簡(漱石風。)に、唆される)。まぁなんとも「戦後教育」とは小姓じみた真似をしたものである。やれやれ。
そうして日本文学の「伝統」を受け継いで、実に「男らしい」のが特徴だ。
おそらくそれが、言語に特徴的に表れているだろうと思う次第である。

je.at.webry.info

  👇And tree was happy.... but not trueだったら。木だけに。

最後の方に出てくる科白は原作では「And tree was happy.... but not really.」
旧翻訳では「きは それで うれしかった・・・ だけど それは ほんとかな?」
新翻訳では「それで木はしあわせに・・・ なんてなれませんよね」です。

 

100名山
ベスト1000レビュアーVINEメンバー
5つ星のうち1.0 シンプルでよい。が、根本的な問題が。  

レビューに村上の読者らしい「無償の愛()」にあふれている。

 なぜそれが()かというと、例えば、joyもあるからだ。

俺にとってのJOYは、家族を愛すること、

tabi-labo.com

happyの語感

「メリークリスマス」の挨拶は万国共通でない | 実践!伝わる英語トレーニング | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

英単語「happiness」の語源や由来|日本にいながら英語・英会話力爆上げ|note

村上読者の云う「無償の愛()」がチャリティーを帰結するだろうか?
joyと正直に言った彼を拍手したいと思う。
ちなみに、

Government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people.

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。(日本国憲法前文

enjoy - ウィクショナリー日本語版

ただ子どもはそれくらい手に負えないから「無償の愛()」と言いたくなる気持ちはわからないではない。「家族」を憲法に入れられるアメリカと入れられない日本との違いがあることぐらいは知っていてよいと思う。
幸せの外部要因への帰属と、realの語源にあった二重性を考慮すると、

 

 そして ふさふさのおおきなき は めぐりあわせにまんぞくしました。
 。。。。。みたかんじわからないけれど。

 

パッションやねぇ。

books.google.co.jp

徳 - Wikipedia

あのそもそも。。。treeって👇のことやぞ。ただの「き」のわけがねえだろ。
樹木が愛されてねえなぁ。
tree | ロングマン現代英英辞典でのtreeの意味 | LDOCE
村上春樹のどこが「原文に近い」んや。単に「「日本人英語」に抱く日本人の感慨を引き寄せる」が正当な言い方だろう。それが「無償の愛()」である。このとき、それが何であるかはわからず、どうあるかがそれぞれの「語り」で相互に参照されることが本質である
わしが全文「正しく」訳しましょうか?
それは冗談として(語義にー訓詁的にー忠実に訳してみたが、自分の訳には、自分自身、無理を感じる。本音ではもっとざっくばらんな印象を受ける。)、本田

mimi-design-lab.com

原作者がキリスト教寄りとは限らないし、むしろ。ヒッピーっぽいイメージ(それが正しい理解かはわからない。)の経歴を持っているようなので、もっと即物的な感慨述べたのかもしれないし、児童文学者であるので何かしらの一定の考えを持っているかもしれない。「原作に近い訳」なんて言葉尻ひとつで決まることじゃないと思う。ましてや英語という違う文化圏の語彙が1対1で直ちに翻訳できると考えるのが、「村上語(内田の云う「世界性」)」の特徴で、ただし、それは言葉の面相のハナシで()付となるのが特徴だ。すなわち、

 happy →(辞書的に)「幸福」(が形式的に一意に定まる)→ 内容は()

で語用のシチュエーションに依存する。それを「原作に忠実」と言っているのだが、それはシステム管理の問題で(c.f.行為無価値と結果無価値の違い)、どこにリスク負担をさせるかの違いにしかすぎない。村上は、リスクを(テキスト外部へ)排除する「翻訳」方法を採るに過ぎない(結果価値的リスク負担)。
反対に本田はキリスト者らしく(伝統的な)「問答形式」を採用して、リスクを内部化する(行為価値的リスク負担)。その違いである。
そして、村上にはそれがわからないというのが、ことの真相、乃至深層、だろう。
別に褒められるようなことではない。
一つ指摘できるのは、レビューが村上読者による(美濃部のような、「国会」)支配的なことばにあふれている事実だろう。偏見だろうか?
少なくとも「専門家(研究者)」は本田の方である。村上は「本職(作家)」乃至「専門的従事者」である。「本職(作家)」が文芸批評に通じている保障がなにもないのは、芥川賞の選考を見ればわかる。もちろん、彼らは、当代一流の「本職(作家)」である。フェアな視点を持つかどうかは、パラメータを知らないから、わからないだけで。

 

一方で、鈴木三重吉の「中央語」である。
正直な感想としては、「地方語」に「屈折語」の印象を受け、「中央語」に「膠着語」の印象を受ける。「屈折語」「膠着語」をうまく理解できない。

それは甘うがんすえの。それにこの頃は月が無い頃ぢゃけに尚更甘いんでがんすわいの。

『千鳥』明治39(1906)年

 どうでがんすい。どうもせないでがんせうがの。

『小鳥の巣』(下ー6)明治43(1910)年

夏目漱石の「憐れ」に催す心情風景を舞台上に展開したのが、『千鳥』で、「がんす」はそれに添えられる。それはオフィーリアを描いた  の美的感慨とは異なる。
『小鳥の巣』では、要は、「どうでございましょう。どうしようもないでございましょうが」となっているが、機能的で心情風景に付随する必要がない。むしろ心情は語尾の「い」であったり「の」に(「がんす」から)機能的に切り離されて集約されているような印象を受けるのは気のせいだろうか?
すなわち、『がんすわいの』は『がんすわいの』で一語、『がんせうがの』は『がんせ・う』+『が(』+『)の』の(語尾変形で連結した)二語乃至三語の印象を受ける(もちろん、『がんす』+『わ(』+『)い(』+『)の』となるかもしれないが、分節して切り出させるような印象を受けないのだ。そうして他のシチュエーションへ援用しても違和感を催しそうである)。
これだけではよくわからない。

広島弁の「がんす」(「~です」「~でございます」)の意味

がんす - Wikipedia

宮沢賢治の『タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった』が鈴木に送られたのが、大正13(1924)年であった。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です

宮沢賢治 『春と修羅』 

「栗の木 死んだ、何して死んだ、  
子どもにあたまを食われて死んだ。」  
すると上の方で、やどりぎが、ちらっと笑ったようでした。タネリは、面白おもしろがって節をつけてまた叫びました。
「栗の木食って 栗の木死んで  
かけすが食って 子どもが死んで  
夜鷹よだかが食って  かけすが死んで  
鷹は高くへ飛んでった。」

宮沢賢治 タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった

児童文学がここにおいて克服したのは「道徳」と「女」であっただろうか。
有島だけのハナシか。

けれどもあの透きとおるような海の藍色あいいろと、白い帆前船などの水際みずぎわ近くに塗ってある洋紅色ようこうしょくとは、僕の持っている絵具えのぐではどうしてもうまく出せませんでした。いくら描いても描いても本当の景色で見るような色には描けませんでした。

(中略)

真白い手ての平ひらに紫色の葡萄の粒が重って乗っていたその美しさを僕は今でもはっきりと思い出すことが出来ます。  
 僕はその時から前より少しいい子になり、少しはにかみ屋でなくなったようです。
 それにしても僕の大好きなあのいい先生はどこに行かれたでしょう。もう二度とは遇あえないと知りながら、僕は今でもあの先生がいたらなあと思います。秋になるといつでも葡萄の房は紫色に色づいて美しく粉をふきますけれども、それを受けた大理石のような白い美しい手はどこにも見つかりません。

有島武郎 一房の葡萄

有島はキリスト者内村鑑三の弟子。)からハーバード大学への留学を経て社会主義者へ転向した。
その後、「女」で死んだ。

www.kodomo.go.jp

死んだとき、『少女趣味』とこき下ろされたそうだが、「女」こそ文芸の中心であったではないか。いや、対象の、か。
夏目漱石がついに『明暗』で「女を発見(『女の内面の誕生』)」したのが大正5(1916)年だったか。 しかし、それは未完のままである。

「女」の代わりに「子ども」が登場したのだろうか。
一度、ダダイズムを経由することは、当時必要だったかもしれない。