不完全なメモ

以下は不完全で誤りを含むので、訂正が必用

 

①成員リスク

②システムリスク

③モラルリスク

これへの対処は以下の設置となる。

①ネガティブリスト

ポジティブリスト

ブラックリスト

これはトリレンマを構成する。
その効果として、①カツ②の選択は、顧客の悪性を論い「強欲」と呼び、②かつ③の選択は、要員の悪性を論い「怠惰」と呼び、③かつ①の選択は、システムの悪性を論い「迂遠」と呼んで非難することになる。

これは一方的に言われることではなく、それぞれリスク負担上のことなので、適正なリスク負担を欠くとき、態が反転するのが特徴だ。つまり、要員へ「強欲」、顧客への「怠惰」、最後は、要員もしくは顧客への「迂遠」。
そして、ブラックリストは禁止されているので、もっぱら要員への非難が取り上げられることとなる。

これが組織が疲弊する原因ともなっている。

 

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 戦後教育も組織的に行われるため、例外にあたらずこういったトリレンマを抱えて、実質ブラックリストが「禁止」されることによって、「被害者」を生んでいると喧伝されてきた。それはリスク負担の特性上の「欠落」が「被害」を生んでいるとの話型で。
「寡欲」を含んで「献身」が欠落し、「率直」を含んで「妥当」が欠落していると非難されたのだ。つまり、リスク負担の特性問題とは、自らの負担を過少にすることで反対的に相対者の負担を過多にする企図することの評価問題なのであった。

こうして「ゆとり教育」は「誰もが私は被害者でない」ことを目指す教育の前駆であったのだが、実は「学習意欲」を欠くことは、必ずしも主観的には「被害者」を生んでいるとは限らなかったのだ。
ともあれ、そうして「怠惰」は「能力」に言い換えられ、格差が肯定されていった。誰もが私は被害者ではないと言い得るために、教育機会の自由が求められたのだ。「惡平等な教育は私の自由を奪っているので、私は被害者だ」と言い得た。
これが〈措定〉論法なのが注目に値する。被害者は〈指定〉されないのだ。誰かが被害者なのではない。誰もが被害者になるのである。そうしてそれを救うのは主観の自由である。
ならば、「教育格差」は誰が言っているのか?
相対的貧困に苦しむ生徒が言ったのは、「私は不自由である(に感じている)」ということであった。それへの非難は「怠惰」であった。ここではもはや「能力」格差は問題にされない。等閑に付されているか、能力志向を満たしていた。能力の格差を認めることが他の格差を認めることではない。能力格差はあって当たり前だが、他の格差を認めるか、認めないかである。能力に応じているのに、被害者にされていると主張するか、「被害者」を装っているだけだと主張するかの違いであった。

 その生徒が「諦める」ことがそれほどの「社会悪」だっただろうか

これは別様の「怠惰」への非難である。そこで主張されているのは「献身」だけれども、「自己への献身」があるから称賛されるべきという命令である。他者への「献身」の欠如の非難が反対となって、自己への「献身」の充足が称賛されたのだ。

そしてそれを過不足なく満たすのものこそ、文化的制度であった。
「みんな同じように頑張っている」ことを第一に称賛するシステムがこの意味で文化制度である。つまり、成員リスクが高いのが特徴である。その場合、システムリスクも、  リスクも顧みられない。

なぜ、文化制度が成員リスクを過剰に見積もって、他のリスクを顧みないのか。
能力格差を是認するからである。 


 

新井白石をどう評価すべきだろう。
荻原の挑戦は、幕末の混乱につながるが、実は新井はそれを先どっていたかもしれない。
彼が「倫理」から荻原を責めたのは、彼が「国際経済派」だったからであった。
これもまたリスク負担の問題であって、荻原の政策は、国際経済ではリスク負担を重くした。

要は、幕末にしろ、元禄にしろ、国際相場では実価より低く見積もられて買いたたかれて取引されていたらしい。
新井はそれに介入する必要を感じたらしい。
朝鮮人参の取引程度ならそれほど心配することはなかったのだろうか?
朝鮮通信使は事実上の朝貢でもあって、貢がれる方こそほどこしの負担が大きかったのだ。貢ぐ方は「乏しい」と文句を言うこともできた。

 

新井白石 - Wikipedia
荻原重秀 - Wikipedia