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私は違うと思います。
まだ読んでいませんが、お二人の話を信頼するなら、
ラストは玉音放送ではありませんか?

補助線を引きます。

悲しみや涙のためには、人は、その死者の物語を知らなければならない。その背景を、細部を、知らなくてはならない。一方喜びや幸福は、そうしたものを要求しはしない。それらは曖昧なままで、充分に、満足している。

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5つ星のうち5.0
胸に穴が開きそうなほどの悲劇(訳者あとがきより)

主題は👆と一緒だろうと思います。

サガンの「笑い」は、宇佐見の「推し」であり、サガンの「ナチス」は宇佐見の「自分自身」です。

自分自身が、決して逃れられない「環境」です。
自分からは卒業できません。

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このとき、ラストが(おっしゃる通り)なら、「天皇」を向き切らないんです。
四つん這いになって泣くことができない。
それがここでの「自分自身」です。
本当なら泣いて推しを思うところ、違うことをしてしまう。

それでも「推し」なんです。
今度こそと笑顔を浮かべて何度も何度も逃げ出した小池が、それでも「将棋」だったように。自分自身はどうしても「明けない」んです。
宇佐見にとっての「推し」が、小池の「将棋」です。

www.huffingtonpost.jp

私にはお二人の感想から、そう読めました。
私にとってより興味を惹かれるのは、小谷野先生の『推し、燃ゆ』の読み方が、明石家さんまさんの『漁港の肉子ちゃん』の読み方に近いものがあるかどうかです。
(ちなみに、小谷野先生は、明石家さんまさんの7歳年下で、ダウンタウン松本さんの1歳年上のようです)

宇佐見も西も、現代の女性として、どちらの作品でも、最後に「昭和」の男を軽やかに裏切っているように私には思えました。「軽やか」というのは、気にしなければ気づかないという程度の共感の強さのことで、わからなければそれもいいんじゃないという或る種の無責任さ乃至対人的な距離感のことです。

ただ、小谷野先生の技術的な指摘には、さすがと唸りました。
島崎藤村の『破戒』と読み比べたいと思いました。

蓮華寺では下宿を兼ねた

『破戒』の冒頭文/島崎藤村

 蓮華寺下宿を兼ねた

 蓮華寺下宿を兼ねた

 蓮華寺下宿を兼ねた

のいずれでもない。


ただ発達障碍を言うのであれば、

『推し、燃ゆ』の構成なら、家族の発達障碍も取り上げないと、バランスが悪いかなと思う。遺伝もあるわけですから、家族の中で独りだけ発達障碍とは限りません。
そういった視点が加わると、また違ったことが見えてきますので。
もちろん、一人発達障碍の家族が居たから、みんながみんな発達障碍とは限りませんが、診断を受けたということは、知能検査を受けていると思いますので、例えばLDならLDで、家族もわかっている中、やり取りでそれぞれがそういう態度なのが物語上意味を持つかな?と思った次第です。
コンビニ人間』と同様特徴的なエピソードについてはよく調べられていますが、ですから、機微についてどこまで触れることができただろうと思いました。
それについては、著名な漫画家のエッセイの方が(多少脚色があったとしても)そういう家族ゆえのエピソードが真に迫っていると思いました(当たり前と言えば当たり前ですけれ)。

 

(小谷野先生並びにご家族がどうこうということではなく)描き方については『母子寮前』と読み比べても面白いんじゃないかな。