今気づいたが、どうも今までは、癖のつよい文章ばかり目にしてきたようだ。
すっきり書く技術や技能やセンスがどこかにあるらしい。
たぶん相当訓練されているんじゃないのかな?
生得的な才能だとしたら、相当、すごいよね。
訓練されているものとして考えると、興味深いんだよね。
昭和の時代の「新見南吉」が(それはつまりは、大正の文芸運動の賜物だけれど。)、現在はこういった表現で生まれて来るんだなって。
つまり、「作者の気持ち」問題って、実は文法問題で、でもそう理解されないのは、教育の問題なんだね。文法を教えないけれど、文法問題。
「文法」という手段を教えずに、その劇的な効果だけ教える。或いは、算数で言うなら、シェーマ(タイル)は教える。
読書感想文と同じで、書き方を教えないけれど、環境だけ用意して、書かせる。
図工の対称問題といっしょで、対称を教えなけれど、環境だけ用意して、描かせる。
おなじなんだね。
そういう「自動教育」的なコンセンサスがあったらしい。
ただし、それが、相対評価と結びついて、「わかる」児童だけが「わかる」という選別を生んでいただけで(それを良しとしていたし、その選別は、教師による児童のあからさまな差別を生んでいた割に、クラス経営の意義以上の教育的な含蓄が本当にあったか、疑問だ。それは所詮は、情報格差を自明とした、教師の教育資源の独占に過ぎないからだ。情報格差乃至資源の独占を前提としなければ、評価の独占はいまだに崩れていないとはいえ、どうだっただろう※)。
大正デモクラシーに代表される「自由な雰囲気」が今の評価軸に照らして本当に「好かった」かどうかの観察にはかなり注意が要る。大正時代を手放しで褒めるのは、相当政治的か、相当幼稚だよ。大正デモクラシーと昭和のファシズムは対立していない。
今では通用しない。どの児童にも平等なスキル教育になっている。
その中で、こういった文芸が生まれてきて、相当訓練を積んでるなら、文の構造的にもしっかりしているだろうと思える。
比べると興味深い事実が出てきそうだけれど、やめときます。
批判じゃないんだけれどね。
このレベルの高さは誇ってよいことで、時代のひとつの成果なんだけれどね。
※今は、過剰ともいえる情報のアクセスの選択の中で、過当競争にあえぐようになっている。しかし、一方で、マッチングの問題が胚胎して、例えば、生得的な情報環境にソフトな制約があって、選択が現状維持に傾く傾向は、どの集団も持っている。「文化資本」と呼ばれる問題だ。これは単純な階級問題ではない。ソフトな制約ゆえの期待の偏向だ。