へー、興味深い

やまとことば~心を癒す美しい日本語の意味と語源が知りたい|ハッケン!ジャパン

でも、「秋」だけを考えるから、「飽きる」という経験を基にするけれど、「青」や「赤」を考えると、「家」がそうであるように、{A}の語義と{K}の語義の組み合わせじゃないかと思う。「春」と「冬」も{P}と{R}/{J}(過去形の類型)の組み合わせじゃないかと思う。すなわち、数詞と関係が深いのではないかと思う。
「暑い」から「夏」よりも、{M}と区別される{N}の音の剥落じゃないかと思う。
夏は要は、間で何もないのだ。つまり、意味辞(表示)と過去形で彩る補助辞(表示)の組み合わせが、{P}{R},{N}{T},{A}{K},{P}{J}、すなわち、「春」は「昼」じゃなく、「夏」は「満つ」じゃなく、「秋」は「明け(曙)」じゃなく、「冬」は「夜更け」じゃない。

ただ、古代の日本語(祖語)は素人にはきわめてややこしくて、発音記号などほとんどわからないから、もちろん出鱈目を言っているのである(たやすく勘違いする)。全部わかるとさぞ気持ちよいだろうと想像するだけである。

 

そのうえで、「こと」と「ところ」を比べると、「こと」は、まるで「来」「止」で、「ところ」はそれを踏まえて、反対において、「留」(過去形)で概念化したもの。
つまり、前者は、現実化するアスペクトを含意していて、後者は現実化した対象を明示している。

すなわち、「こと」はComingで、「ところ」は、have come かな。

こうすると、「伺ったところ、」云々という場合にも使える。状況の成就だ。

あるいは、「ころも」が「ころ」と「も」に分かれた言葉で、「も」は{M}{ue}で「め」の類音語だ。

やまとことば - やまとうた

その「ころ」に接頭語「と」がついた格好で、「こころ」の類義語だが、反対に「ここ」と「とこ」に「ろ」が付いたのかもしれない。

なんでこんな変なことばかり思いつくかと謂うと、もちろん、数詞の影響である。

ふ・い(ひ)ーふ
む・い(み)ーむ
ゆ・うえ(よ)ーゆ・いえ(や)

み+よーなな
よ+い・とぅお―ここ

い・とぅお(いつ)―とぅお(とお)

意味辞と補助辞の組み合わせだが、「い」「う」「え」「お」の順序で、主従の関係や転換の様などを著してゆくように見える。ベースは対概念だ。
うろ覚えなので、あやしい。
「は」は古代「ぱ」であったと説明されるが、「ひとつ」の「ひ」はむしろ、「ヒュー」といきを吹き出して語尾を「ゥイ」と上げる、口笛のような音である。この「イ」が落ちてペアを満たす組み合わせが基本形である。そうすると、奇数と偶数のどちらが偉いかの話になる。伝統的に「3」は珍奇な数と言われているが、古墳時代からすでに10進法が使われた形跡があることから、むしろ手で計算していたと想定すると、「3」は片手の中間に過ぎないから、単なる「満ちる」か何かの意味論からだろう。「よ」になると変転の意を備えるのであるが、何が「変転」したのか、むしろ複合的な対概念から、基本「う・い」ー「う」、抱合「い・う」ー「う」、分析「うえ」ー「いえ」と、基本の対概念を含んだ抱合の対概念としての「抱合」、基本の対概念のうちにさらに対概念を認める分析の対概念としての「抱合」への拡張ではないかと思える。要は、4は2の倍数であるが、1の倍数である2から、どう展開して表現するかである。
〈強/弱〉との音の添加と変化と反転に加え(意味と音からなる)文字の重複で、複雑な組み合わせを構造上実現している。
うろ覚えであるが、ここで謂いたいのは、どの程度の要素があれば、構造上それを満たすかという試行である。この構造の基本は、対概念と10進法である。すなわち、手と指の外形から、1―2と5―10のペアは最初から決まっていて、それを括弧に居れた{1―2}{5―10}を「い」の反転でペア化したのが数詞の概念の基礎となっているようだ。そうすると{1―2{4―8}}という正しい対の分析概念と、「なな」「ここ」という、「つつ」にも現れる、複雑な対の分析概念としての重複概念も追加される。「なな」は0(シーニャ)概念ともかかわって、「し」と対を為す「な」の重複で、深淵だ。「し」はアスペクト表示を付随すると「白」になる。「ひ」の原色からのまるでカラーチャージだ。過少は「白」で過剰は「黒(黄)」だ。ここに「く」からの「こ」のアイデアが生まれ、「なな」と「ここ」が(「やや」がないとして)ペアとなる。これは交叉的な概念{し―な{なな―ここ}}となっていて、レヴィ・ストロースの親族概念と比較したいところだ。

もちろん、出鱈目だれど。