小1が図工で作った紙粘土のドーナツを持ち帰ったので、「カラフルに色付けできて、ビーズも可愛くトッピングができてる!(めっちゃ上手ではないけど)頑張ったね!」と言ったら、「先生はしょぼいって言ったのにお母さんは褒めてくれて嬉しい」って。子供が頑張って作ったものにしょぼいっていう?
— 言う系同居嫁さえ🦀 (@snd102231) October 18, 2022
かつて定期的にグリーン車の「ただ乗り」が話題に上ったものだが、これもちょこちょこ見るような気がする。
素人ながらの感想では、所謂「小1問題」の教師側の問題。
つまり、「教育」としての「介入」の問題(幼保に加えてこども園とある中でいっしょくたにできるかは知らない)。
(幼児の造形活動と小学校図画工作科の内容分析 ― 文部科学省検定済教科書に見る幼児課題との同一性と教育内容の変遷 ― 松下明生 )
ただ、やっぱり不自然な気がする。
つまり、
普段「自衛しろ自衛しろ自衛自衛自衛自衛」と言われる身としては、「トイレの場所を子どもに聞いただけで不審者扱いなんて…」とか言われると、「子どもは仕方なく『自衛』してるんだから、大人も冤罪を疑われないように『自衛』すればいいのでは❓😅」と思ってしまうナ
— ウンチスト瀕死🐇一部通知×🐇 (@RisaRisakokko) October 19, 2022
これだな、というところで、「大人同士なら言わない」ことなんじゃないかな。
関係性の認識が「一方的」で在り過ぎる問題。
つまり、状況たる事実はともかく、これら2例に関する一般的な違和感は、「人」と「人」との基本的な関係性(関係の本質的な性質を踏まえた関係の構築)があったうえで、「子ども」に対する保護を求めるべきという法理乃至条理、社会通念に反するからで、変に相手たる子どもへの負荷が大きいのだ。
言葉の意味を文脈やニュアンスまで、或いは状況から理解したり、或いは、反対に受け流すことができる認知能力の発達は大人のものであり、それを押し付けている「一方的な態度」がありつつ、反対に、相手が大人だったらそのような態度を採らなかったであろうという不均衡さを状況的に持っている。ねじれているのだ。
そういう気持ち悪さが先立つのだ。
それをただちに一般化が許されない特殊な状況下のリスク案分で行っている。
それ自体が誤謬だ。
これらの2例は、いずれも「性教育」の範疇にあるというが、私の理解である。
「性教育」の基底を為すのは人権で、「侵害」をターゲットに据えているはずだからである。
すなわち、上の図工の例は、「(教育的)介入」という外観を持った「侵害」が疑われる。