藤澤清造と横光利一

 

markovproperty.hatenadiary.com

横光利一が戦前の文壇の中枢だったんじゃないかと思えて来た。
カントの解釈が有効だったからである。
その点西田幾多郎はやはり物足りなかった。
心理学、論理学をカントで統合して、日本主義、太陽主義を導いたような立ち位置に見える。大江も横光が居たからこそというと、言い過ぎか。
谷崎潤一郎と比べてどうだろう?
戦前は「ドイツ時代」だったとしか、言いようがない。
ならば、「横光時代」「谷崎朝」というところだろうか。「朝」を好むところが「巨人嫌い」ならぬ「天皇嫌い」の小谷野さんらしいが。素朴なのである。
藤澤の作品が横光の先駆けとなったが、新しい知識の流行には敏感であっても、藤澤には横光ほどの学問がなかったのではないか。

横光が先に帰ると菊池が川端に「あれはえらい男だから友達になれ」といった。

横光利一 - Wikipedia

川端が良い位置につけている。

聞いてみた。

https://chat.openai.com/chatからの回答

横光利一とは誰ですか

横光利一(よこみつ りいち)は、日本の小説家であり、代表作に『山月記』『日本の聖歌』『蠅に捧ぐ』などがあります。彼は、戦後の日本文学における「無精神主義」の代表的な作家の1人とされ、独特な文体や哲学的な深みを持った作品を多数残しました。また、彼は詩人としても活躍し、『赤い鳥』という詩集を出版しています。横光利一は、日本近代文学史において非常に重要な存在であり、多くの読者に愛され続けています。

—劉吶鴎とは誰ですか

劉吶鴎(りゅう・だけお)は、中国の近代文学において代表的な小説家、劇作家、思想家の1人です。彼は、1898年に生まれ、20世紀初頭の中国における政治的、文化的混乱の中で活躍しました。代表作に『狂人日記』『阿Q正伝』『草莽傳』などがあります。

劉吶鴎は、主に小説や随筆、劇作を通じて、自身の思想や社会批判を表現しました。彼は、中国社会の貧困や民衆の悲惨さ、そして腐敗した官僚制度を批判し、現実主義的な文学を志向しました。また、彼の作品は、精神分析学やニーチェの思想など、西洋の思想との交流を反映しています。

劉吶鴎は、20世紀初頭の中国の文学・思想界に大きな影響を与え、現代中国文学の先駆者の1人とされています。

—施蟄存とは誰ですか

施蟄存(し・ちゃくぞん)は、中国の詩人、小説家、散文家であり、現代文学の巨匠の1人です。彼は、1906年に生まれ、1941年に亡くなるまでの短い生涯で多くの傑作を生み出しました。

代表的な小説に『孽子』『慈母』、詩集に『井崗山上』『野火』、散文に『草の根』『智慧的誘惑』などがあります。彼の作品は、農村や都市の貧しい人々の生活、革命運動、個人と集団の関係などをテーマにしており、リアリズム的な描写と、感情的かつ直接的な表現が特徴的です。

施蟄存は、中国現代文学において、抒情性や社会批判性に富んだ優れた作品を生み出したことで高く評価されています。また、彼は、自由主義的な思想を持ち、言論・表現の自由を重んじたことでも知られています。

—穆時英とは誰ですか

穆時英(むつ・じえい)は、日本の小説家であり、代表作に『深夜特急』『図書館戦争』『天地明察』などがあります。彼は、SFやミステリー、歴史小説など、ジャンルを超えた幅広い作品を手がけています。

穆時英は、文学賞を数多く受賞しており、特に『深夜特急』は、直木賞本格ミステリ大賞を受賞するなど、高い評価を得ています。彼の作品は、面白さやエンターテイメント性が高く、一度読んだら忘れられない印象的なストーリーが特徴的です。

また、穆時英は、小説家としての活動に加え、テレビ番組の脚本や映画の原作・脚本なども手がけており、幅広く活躍しています。彼の作品は、多くの読者に愛されており、現代日本文学において非常に重要な存在です。

 

同じくらい出鱈目であるようだ。

オンライン中国作家辞典(全作家ピンイン索引)

マルクス主義文芸叢書」を出版、自らも『芸術社会学』や日本の新感覚派小説を訳す。また同書店から出版した『無軌列車』『新文藝』などの雑誌に、躍動するリズムとモダニズムの手法で都市の享楽を描いた小説「遊戯」「二人の時間の不感症者」などを書き、1930年には『都市風景線』にまとめた。『映画リズム簡論』のような論文も書いている。上海事変以後日本に渡り、1939年には汪精衛政府に身を投じた。同年、上海で同政府による『文匯報』を出版する仕事をしているときに、刺殺される。穆時英とともに新感覚派の代表作家と見なされている。 

Liu Na'ou 劉吶鴎 (1900-1940.9)|オンライン中国作家辞典(全作家ピンイン索引)

 1922年杭州の之江大学に入学、翌年、上海に行き上海大学に入って新文学の影響をうける。1926年、震旦大学フランス語特別クラスに転ずる。革命活動にも参加し、同級の戴望舒、劉吶鴎らと『瓔珞』旬刊を創刊、ここに出世作「上元灯」(原題は「春灯」であった)を発表した。

 1929年以後は、水沫書店で『無軌列車』『新文藝』の編集をし、1932年から1935年にかけては、著名な『現代』月刊の編集長をつとめた。その間に、作品集『上元灯』を出版しているが、その作品は大部分がノスタルジックな抒情によって、若い男女の初恋の詩情や小市民の生活を描くものであった。

 「鳩摩羅什」を書いて後は、フロイドの精神分析を用いた心理小説の創作を意図し、穆時英らの新感覚派小説と合流していった。主な作品に「将軍底頭」「石秀」「梅雨之夕」「春陽」などがある。

Shi Zhecun 施蟄存 (1905.12.3-2003.11.19)|オンライン中国作家辞典(全作家ピンイン索引)

 1929年穆時英は上海光華大学中国文学系に入学。銭基博先生の授業に出たが、毎学期とも落第であったという。穆時英の才能も興味もそこにはなかった。彼は外国のモダニズム文芸に注目し、モダンな小説技巧の「実験と鍛錬」に夢中になっていた。  

 1930年2月、彼の処女作「ロ自們的世界」は、世に出ると、すぐに好評を博し、比較的大きな反響を呼んだ。それ以後5年間に、彼は次々に『南北極』『公墓』『白金的女体塑像』『聖処女的感情』と4冊の短編小説集を出版した。後の三冊は手法上の新しさから、穆時英に「新感覚派の聖手」という美名を獲得させたのである。  

Mu Shiying 穆時英 (1912-1940.6.28)|オンライン中国作家辞典(全作家ピンイン索引)

西田は石川県専門学校時代に漢籍を学んだらしいが、どこまで信用してよいのか。横光はカントへの理解を中国語(の持つ概念理解)を通じて彫琢することができたのではないだろうか?

中嶋敦もこの流れにあるとすると、『山月記』の読解が変わってくるかもしれない。