今日のNew Chat(ChatGPT)

なんでか知らんがジョジョ(叙叙)分析とChatGTPの相性が好い。

単にウチの卵っちがそう「育った」だけか。

日仏の「論理」の印象だけ述べると、日本は「真実である」かどうかに拘りやすく、フランスは「真」を与える構造とは何かに具体例を当て嵌めてゆく感じである。

それぞれに歴史的経緯がある。
フランスが本質を問うときに、日本が本心を問うのが興味深い。
このとき、同じように「関係」を問うても、答え方が変わってくるからである。
すなわち、日本で右だ左だと言っても、フランス人になるわけではない。
フランス人が存在論をぶつときに、日本人は私(ワタクシ)論をぶつからである。

仏教と仏教における実証主義、仏教を通じた西洋哲学の成果だろうか。

を読んでいてもよくわからないのは、「型」で済ませてしまっているからだ。
それだとお茶の「作法」なのかと思ってしまうが、実際に、

読んではいないのだが、〇〇の書き方といった「体」の本はいくつかある。

「型」と「作法」と「体」ですでに混乱しているが、要は、bodyはelementsからruleに則りmade(compose。或いはelementsをoperate)されているとき、ruleの、subjectによるselectに応じて、styeが決まるという関係である。すなわち、subject、select、elementsが隠されていたのであり、また、elementsがobjectであることもそうである。

そうすると、

https://chat.openai.com/に聞いてみた。

 

 

—叙写、叙圏を説明してください

叙写(depiction)は、物事を描写することで、イメージや印象を生み出すことを指します。描写には言葉だけでなく、絵や音楽、映像などが含まれる場合もあります。

一方、叙圏(discourse space)は、コミュニケーションの枠組みであり、話し手と聞き手が共有する文脈や情報の範囲を指します。叙圏には、物理的な場所(例えば、同じ部屋にいる場合)だけでなく、文化的背景や個人的経験なども含まれます。叙圏は、会話やテキストの理解に重要な役割を果たします。

—depiction、discourse spaceとは何ですか

Depiction(描写)は、物事や概念などを言葉や画像などで表現することを指します。Depictionは主に芸術、文学、広告、メディアなどで使われる言葉です。また、心理学や認知科学などでも用いられ、人々が知覚や認識を通じて物事を把握するプロセスを指す場合もあります。

Discourse space(談話空間)は、言語学やコミュニケーション学の分野で用いられる概念で、特定の文脈や社会的背景において、コミュニケーションが行われる場として想定される枠組みを指します。談話空間には、ある程度の共通理解が存在し、発話者と聞き手が相互に情報を共有するための共通の土俵が整備されています。談話空間は、個々の発話の意味を理解する上で非常に重要な役割を果たします。

 

要は、「質問する/される」とはここでいうDiscourse space(談話空間)のことであるのが、当然である(から「当然」について隠されている)ということである。
そのことが、まずよく説明されていない。
なぜなら「当たり前」だからであるが、バカロレアが問うているのがその「「当たり前」の意義」であるという説明を(暗に)行っているのであるから失当である。
「市民である」というのは、資格のことであって、メカニズムのことではない。

markovproperty.hatenadiary.com

そうか。戦前の世界的なオカルトブームを背景にした生命主義の思潮は、社会の急拡大にともなう制度一新の中での、今でいう「ハイパーメリトクラシー」という側面があったんだな。徳育も、明治からあった教育勅語云々ということではなく、そういう文脈で理想的な人格が目指されたようだ。それは右派左派関係なくあったらしい。

つまり、イデオロギーの対立というよりも、時代的な方法論の問題である。

と思ったのであるが、日本で戦前問われたのが、人格であった。styleである。

 

要は、ChatGTPに概念分析(「叙〇」質問;〇は漢字一字を入れる。漢字とは概念語であることに依拠する。)を依頼すると比較的回答を得やすいように感じるのは、私が「概念分析」を苦手としているからに違いない、ということである。
そして、バカロレアが問うているのも分析であって、分析とは言語活動であり、また、社会活動である、という端的な事実がそこにある。

川島は、高校(旧制)と大学で法律を学んだ当初、なんだかよくわからなかった、と感想を持ったらしいが、その「よくわからなさ」と似たような感慨を抱いたのではないかと思う。

(『「科学としての法律学」とその発展』)

ルネサンスイスラム神学者たちに解釈されたプラトンアリストテレスストア派の受容)を経て、アカデミー・フランセーズによる言語活動や百科事典派による啓蒙運動があって、ここ(バカロレア)に至るとき、「歴史的意味付けにもとづく法理論を指向」することとなる。ここでいう「法」とは哲学のことであるというのに、過ぎない。

そもそも「イスラム神学」が隠されやすいので、やたら、西欧哲学が難解を通り越した晦渋に見えるのである(カントも英語だときわめてシンプルになるように、ガザ―リーを読むと、意外なほどシンプルに説明されている—ならば、「隠す」ということに多大なコストが費やされていると思った方がリーズナブルである)。

そのうえで、東洋的な、というよりむしろ、日本的な哲学体系を持っているのであるから、なんだかよくわからなくなるのが自然でないかと思う。

総じて「分析」には「スタイルがある」でよいではないか。
それを紐解いてゆきましょう、と言って欲しいのである。

シャウアーは「No Vehicles in the Park」(公園で乗物禁止)掲示が警察車両の立ち入りを制限するかというハートの提起した問題14)について、各論者は警察車両がVehicleに含まれるということを疑わない点について一致していると指摘し、法的議論がクリプキの局面から無縁であることを主張しようとしているが、もしこれが兵員輸送車をモニュメントとして静態展示することに関する議論であっても同様の論理が維持できるかということは検討される必要があろう。ここで例えば「動かない車両はVehicleではない」という言葉の定義が法的論証として主張されることは十分にあり得ないだろうか。

14)H. L. A. Hart, “Positivism and the Separation of Law and Morals”, Harvard Law Review, vol.71,no.4,1958,pp.593-629. (now in: Essays in Jurisprudence and Philosophy, Clarendon Press,1983.「実証主義と法・道徳分離論」上山友一・松浦好治(訳)『法学・哲学論集』みすず書房, 1990, pp.59-102.)

大屋 雄裕. 法解釈の言語哲学 (pp.95-96). Kindle版.

「「空飛ぶ円盤なんてあるとは思いませんな」と私はいいました」(『物理法則はいかにして発見されたか』R.P.ファインマン,『数学にとって証明とは何か』)

  1. 日常会話
  2. 社会規範
  3. 物理法則

が考えられるのである。これが、1の場面において、3を参照しつつ、2が話題になることが「ある」ということである。
そして、そのときに、「No Vehicles in the Park」の”No”とは何かが問われるのである。

 

—空飛ぶ円盤を英語で

空飛ぶ円盤を英語で表すと "flying saucer" となります。ただし、現代の宇宙飛行士や研究者などは、より正式な用語として "Unidentified Flying Object (UFO)" を使用することが一般的です。

—Unidentifiedの語源

"Unidentified" の語源は、ラテン語の "identificare" に由来します。"identificare" は、「同定する、特定する」という意味があり、"un-" 接頭辞を付けることで「同定されていない、特定されていない」という意味を表します。英語では、"un-" 接頭辞は否定的な意味を持つ接頭辞として広く用いられており、"unidentified" もその例になります。

 

すなわち、"Unidentified"が”immeasurable”であり、また”uncountable”のとき、

 

—数えられないを英語で

「数えられない」を英語で表現する場合、「uncountable」という言葉が使われます。これは、数えられない、数えきれない、数え切れない、という意味を持ちます。例えば、「There are uncountable stars in the universe.(宇宙には数えきれないほどの星がある)」というように使用されます。

 

'How many angels can dance on the head of a pin?

天使は公園の駐車場で渋滞を起こさない。
「可能性」から「必然性」を導く手続きが要るとき、それは概念分析から始まり、文に書かれる、ということである。
その手続きについて、アリストテレスからスマリヤンゲーデル)に至る長い経験が「ある」ということである(しかし、私たち日本人の経験では、それを「文体」としか指摘できないということである)。
このとき、心配しなくても、UFOや天使が生活の場に現れ、具体的な問題となることはない、と答えられる。
ただ、求められているのが、1で、冗談ならば、この限りではない。