上杉慎吉

大日本博士録 第壹卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション

大日本博士録 第壹卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション

上杉は大正9年に半年、渡米している(4月渡米、11月帰国)。

「戰後の歐米事情(青は靑)ならびに勞働問題の硏究の爲に」

 

美濃部達吉

大日本博士録 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

吉野作造

大日本博士録 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

美濃部はアメリカには行かなかった。
美濃部の「アメリカ学」は訓詁注釈学であったようだ。
美濃部の縁戚に、末広が居る。朝鮮銀行総裁も居る。
美濃部だったか一木だったか、北海道に銀行関係者(拓殖銀行だったか?忘れてしまった。)の縁戚が居たのではなかったか。
美濃部と立の国際法論争を考えるときの参考になるだろうか。
菊池大麓の縁戚が法学博士に意外に居る。

箕作秋坪 - Wikipedia

三叉学舎はなぜ、無くなったのだろう?

ちなみに、

大日本博士録 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

法学博士「1番」は箕作麟祥であり、なにしろ「憲法」という言葉を作った。5月7日推薦組5名の、「2番」が田尻稲次郎、「3番」が菊池武夫、「4番」が穂積陳重であり、「5番」が鳩山和夫である。卒業席次と違って、学力考査があったかは知らないが、やはり「箕作」は有名だったのではないだろうか。英米学派が強い。箕作麟祥はフランスに留学したが、もとは、ジョン万次郎の弟子だったらしい。

この頃は、門閥も鍵となる。
上杉はその点「侍商売」というか、鹿児島県士族の娘と結婚して、海軍大学校の教授にはなっている。軍閥に強い。
そういった観点もあるが、末広が「嘘の効用」なんていうと、陸軍幼年学校で「D」とか「C」とか言われたのを思い出すのである。
東北(特に、旧庄内藩)は戦前、大きな文化的な地位、政治的な地位を占めていたのだろうか。

このたび、緑色に塗色された輪島塗の現物が初めて見つかって、アイヌ画を裏付けたらしい。今までは、変色して灰色になってしまっていたから、勘違いしていたらしい。元素とか分析しなかったのだろうか。今までは、画では適当に塗ったんじゃないか?、とまるで、ガンダムの「赤い彗星」がただの偶然だったようなことを言っていたらしい。
北海道はそもそもそれなりに繁栄していたというか、廻船貿易の要港となっていたのではなかったか。北海道へ行って一旗揚げるという出世コースがあったようだ。
いつからか、東北と北海道のイメージが近くなったのではないか。米作の関係だろうか。

つまり、北海道なら昆布であるし、朝鮮なら人参であるのだが、米ばかりなのである。これは新井白石を考える時にも重要である。
要は、大阪を中心に国内経済を考えているのだ。新井白石が経済を軽視したわけではない。国際と国内ではロジックが違うだけである。
これは、維新後の、星一も関わった、国際取引、つまり、アヘン~ヘロイン貿易の話にもつながる。アヘン戦争の意味がまるでわからないではないか。
大日本主義」「小日本主義」とは、国際経済へのポジションを巡って、そんなに単純な話ではなかったようである。それは新井白石のもうひとつ向こうには明(明の銅銭)が居た(あった)ような話である。

当時の経済を考えるときに、大阪を中心に考えるのは、当たり前だが、当時の政治をかんがえるときに、東京を見ていれば、日本がわかるわけではない。

 

早稲田/慶応ではなく、三叉/慶応だったら、もう少し、世の中の見え方が違ったかもしれない。そこに平沼騏一郎東郷平八郎も居たからである。いや、そりゃ、専修大学か。
専修大学が伸び悩んだのは(募集停止に至った。)、英米派だったからというのと(ただ、一方に、中央大学日本大学も居る。)慶応って言うのは、やっぱり、北里柴三郎が居たからではないのか。結局、帝大と「並び立つ」ことができたかどうかであるようだ。法学は完全に帝大の支配下(監督下)に置かれた(それで、慶応は、「〇大法律学校」という呼称のメンバーにされるのをよしとしないのではないかと思う。東京六大学と五大法律学校は東大が入るのとは入らないのとで根本的に違うという話である)。
早稲田はあまりに政治的であるし、慶応は北里、経営の一橋は申酉事件に勝利して帝大支配を逃れたのだが、渋沢が調停にあたったようである。「近世派」はそれなりに社会にポゼッションを示していたようである。

大日本博士録 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

早稲田は18年間、鳩山和夫が校長を務めたらしいが、それ以上の政治であろう。


あと炭焼農家が本当に貧農だったかも興味がある。
トイレットペーパーを売ると、バカラで「億」を連日溶かせる。
「ちり紙」と思っていると、なかなかわからないのではないか。
つまり、イデオロギーというのは、無自覚に、認識を蝕んでいるのだ。