なんか不思議な読後感だ。

呉座勇一『一揆の原理』

一番印象に残ったのは、

  • P.97
    徳政一揆(高利貸しへの襲撃)で、

    最近の研究によると、土倉や酒屋は主に公家・武家などの大口の顧客を相手にしているという。小口の融資を行う場合でも、京都やその近郊の住民を対象にしており、田舎の百姓に融資することはないらしい

    一方で、加賀から京都への支払いは年貢(銭年貢)で発生しており、それに対して「飢饉説」はどう答えるか。特に、京都の行った撰銭と加賀、能登の悪銭の流通をどう考えるか。また、「その近郊」に近江が入るとすると、京都と近江の商人が行う金融に違いはあったか☟note。

  • パフォーマンスについて
    「かのような」理解の共有
  • 正義について
  • 擬制について

 

☞note

このとき、「(当時においてどちらも貨幣として機能した)銭と米の流通量に相関関係は導けるか」という問いを置くことは、学問上、妥当であるか、と思った。

つまり、「資料による考証」の意義である。「飢饉説」は(考古学上の発見とも照らし合わせる)気象歴史学だろうか。自然環境や複雑な条件を加味して、文献上の数値を拾い上げて解析することが有効なのだろうか、という感想である。

ならば、「資料による考証」は別のことであるはずである。
解釈論に関わってくるだろうか。