ホッブスとルソーの二人史

ホッブスはなかなか影響力のあった人だったようで、言わずもがなな3人組(ホッブス、ロック、ルソー)はもとより、シャルル・ド・モンテスキューがいて、そしてこの間にジェームズ・ハリントンがいて、その後に、エドワード・ギボンが居た。

すなわち、ホッブスを「リヴァイアサン」(Leviathan or The Matter, Forme and Power of a Commonwealth Ecclesiasticall and Civil)から見ると、ロックの『統治二論』(1689年;from consent to absolute authority)、モンテスキューの『ローマの隆盛と衰退の原因についての考察』(1734年;common obedience,Colossus of the Roman power)に繋がり、それはギボンの『ローマ帝国衰亡史』(1776年第1巻)となる。
ホッブスを社会契約論から見ると、ハリントン『オセアナ』(1656年;Sovereign Power)、ロックの『統治二論』(1689年;original compact)、モンテスキューの『法の精神』(1748年;三権分立論)となる。

 

すなわち、ホッブスは、ルソーと違って、古典的乃至保守的なエリートだったのだ。

"manner of a Romance,in imitation of Prato's Atlantic Story"

The Oceana of James Harrington, Esq; and his Other Works 1758 : Harrington, James : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

とは『オセアナ』("Oceana";海の—共和国)のことであるが、これがロックの「自然状態」に受け継がれた。

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それにしても、

この革命により、イギリスにおけるカトリック復権の可能性が完全に潰され、イングランド国教会の国教化が確定しただけでなく、権利の章典により国王の権限が制限され、イギリスにおける議会政治の基礎が築かれたからである。

名誉革命 - Wikipedia

不思議なのは、1689年に『人間悟性』を書いたことで、これは「タブラ・ラーサ」にアリストテレスの影響を見ることができるが、ガザ―リーとの関係で、どういう意味を持つのかである。ロックのアリストテレス理解がオックスフォードの講義によるものなのか、デカルトによるものなのか。

ロックの政府への信頼が、なぜ、ルソーとなるのか。