ガザーリーから考えると、アリストテレスに関するデカルトホッブスの近さと遠さが、デカルトニュートンの近さと遠さで説明できるようになる。

「力」を必要とするかは、分割問題を孕んで、媒介を必要とするかしないかで、天体の運動ならエーテル、人の運動なら自然法を必須とするかしないかとなってくる。

デカルトエーテルを求め、ニュートンは結局否定した。
ホッブスは当初栄誉に「力」を求めたが、結局否定した。
ニュートンにとって、数式はエーテル(そのもの)ではないが※、ホッブスにとって契約はエーテルそのものと考えられたためではないか。
ニュートンエーテルから力へ向かい、ホッブスは力からエーテルへ向かったのだと思う。
それはデカルトが媒介を実在から認めたためであると思う。
しかし、デカルトは想像の翼としてソクラテス・メソッドを扱えたが、ホッブスにその翼はなかった(しかし、そのデカルトも、超越数をイマジネーションのレベルで扱えず、機械のレベルで扱った。デカルトにとって「数」とは量だったからである)。
これがデカルト心身二元論からの合一、ホッブスの  から統一性への転換をもたらしているのかもしれないと思う。

こうすることによって、何が可能と成ったかというと、(古典的な理解の流れで)実は(唯物論というより)分解論であって、(天体にではなく)社会にあっては自由意志を考えることができるようになったのである(が、あくまで階層的で、自然法に導かれる)。

そして、ホッブスは、現によく社会を説明していると考えたのではないかと思う。
つまり、歴史的事実及び目の前の政治問題である。
モンテスキューはフランス人であるが、彼の主張した三権分立が現代的な意味ではなく、三身分の均衡による貴族の存続を狙っていた政治的主張であることを免れないよううに、ホッブスによる理に適った政治的主張(説得的な政治パンフレットの側面)も考慮してよいと思う。

※このとき、聖書は媒介ではないと考えられる。