これって実は大切なことで、たまたまホッブスを斜め読みし出したんだけれど、ロックはすごく説明される一方で、ホッブスって「鬼門」で、まともに説明されてないんだよね、たぶん。

なんでなんだろうなぁ?って不思議だったんだけれど、「万人の」って最初に言い出した人なのに、なぜか軽視されている。

たぶんね。

ほぼ誰も「読めていない」んだね。ホッブスって、早熟で、14歳でオックスフォード入った人なんだけれど※、彼の教養になかなかついてゆけないんだよね。
何でかって言ったら、こねくり回さないで、当たり前のようにさらっと言うから、それが教養に基づいているのか、彼のアイデアなのか、区別がつかないんだね。自然過ぎて。

※システムがよくわからなくて、14歳で入学許可が出て、15歳から通い始めたのか。15歳の時に、大学の近くに転居したらしい。

これって、シェークスピアに似ている。『オセロ』ってそうでしょ。
目の前のイギリスの状況を説明しようとして、古典を引っ張り出してきている。

ホッブスもどうもそうで、目の前のクロムウェルの作り出したイギリス自身の混乱であったり、グロチウスをして最初の近代国際法を生み出したヨーロッパ大陸ポルトガル・スペイン連合王国—、或いはポーランドリトアニア共和国のことを、遠いヘレニズム時代の混乱を引いて言うから、部外者には、何を言っているかピンと来ない。

「万人の万人に対する闘争」ってヘレニズム的状況のことだと考えると、一番、納得できる。でも、本当は、目の前の状況を説明したい(アリストテレス論理学が嫌いなことでホッブスと共通していた100年後のスイフトだと寓話っぽくなっちゃうようで、スイフトは実際に、政治に関わった)。

 

それを、教養のないルソーが真似しちゃうから、いっそうややこしいというね。
でも、ルソーはみんな「大好き」。
ロックは「必須」。

ホッブスだけ、「よくわからん」となっている。
同時代のデカルトにも大して認められていない。
デカルトも、ホッブスも、アリストテレス「じゃない」方法を模索して、デカルトは成功したからだね。ちなみに、ホッブスは、大学で、古典(ギリシア語、ラテン語)と論理(アリストテレス論理学)と物理をやっていたらしい。

わかりやすく言うと、ホッブスは「古臭い」うえに「正しくない」
ルソーは、まさにロマンス語の化身みたいな人で、めちゃくちゃ「新しい」。
でもホッブスの「名文句」はキケロ―に匹敵する(ただし、 そういう風 、、、、、 には、読まれない。彼ほど教養がないからだ)。


The difficulty with this scheme is that, while it is bold and original, it is also unsystematic and inconsistent. It does not, for example, distinguish clearly between a present good which can only be presented to the senses and a future good which can only be presented to the imagination. In Leviathan, Hobbes overcame this difficulty by introducing an Aristotelian distinction between present and absent objects:

Thomas Hobbes : Hinnant, Charles H : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

—in Japanese
この計画の難しさは、大胆で独創的である一方、体系的でなく一貫性がないことです。たとえば、感覚にのみ提示できる現在の善と、想像にのみ提示できる将来の善との間に明確な区別を付けていないことがあります。『リヴァイアサン』では、ホッブズはこの難しさを克服するために、現在の物体と不在の物体のアリストテレス的な区別を導入することで解決しました。

ガザーリー図式〉再び

アリストテレス的な区別」とは実はこの区別であると思う。
「この計画」とは情熱の階層化であり、当初考えていた(名誉の)「力」による特権的地位を手放して、なお名誉へ向かう。ここでは(力ではなく)理性が求められる。

現在の物体(馬)と不在の物体(ユニコーン)のアリストテレス的な区別によって。

なぜ、ホッブスは、考えを改めるに至ったのだろう?
アリストテレス批判」の本質は、観念結合による評価の分別の帰結、にあると考えてよいだろうか。
実は、ホッブスもこの点において、デカルト同じく、枚挙的でありつつ選別を言っている。ただ、ホッブスの場合、「階層化」を指向している(☞前々回のエントリ末尾。ガザ―リーによる(或いは「重力」の)可能性の説明。「中心に向かう」のは欲求ではなく想像であるとする。この点で、ひょっとしたら、ホッブスデカルトと袂を分かち、ニュートンに近づいている)。

 

markovproperty.hatenadiary.com

 


無欲望=死(欲望=生=自然権否定。)、過欲望=狂気。ゆえに、自然権と別に自然法が求められる。

  1. ガザ―リー的徳(主体問題)
  2. グロチウス自然法(契約問題)

ここに社会問題がある。思っていた以上に、直接的に「ガザーリー的」であるような気がする。

Hobbes departs from all traditional theories which held that there are objective moral distinctions, with a foundation in the nature of things, which can be clearly apprehended by the individual. It is true that Hobbes’s insistence upon the subjectivity of our perception of good and evil does not absolutely preclude the existence of objective moral distinctions.8 Instead it tends to render the ability of the imagination to achieve certainty doubtful. An emphasis upon “seeming” good and “seeming” evil in Leviathan is the result.

Thomas Hobbes : Hinnant, Charles H : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

—in Japanese

ホッブズは、個人が明確に理解できるものとして、物事の本質に基づく客観的な道徳的区別が存在するという、すべての伝統的な理論から逸脱しています。ホッブズが善と悪の知覚の主観性を強調することは、客観的な道徳的区別の存在を絶対的に排除するものではありません。むしろ、それは想像力が確実性を達成する能力を疑わしくする傾向があります。『リヴァイアサン』では、「見かけの」善と「見かけの」悪に重点を置いています。

 

ホッブスは意外なほど、シェークスピアに近い。

ちなみに、

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