しかし、より一般的に、美しいと名づけるすべての存在に共通な性質のうち、美という言葉を記号にしうるものは何だろうかと、疑問を投げかける。それは、美がそれによって始まり、増大し、無限に変化し、減少し、消滅する性質だという。

ドゥニ・ディドロ - Wikipedia

赤字強調は引用者。
ガザーリーの第8問題です(『哲学者の自己矛盾』)。

つまり、キリスト教を唯一の宗教たらしめた無から有の創造が、神を排して人間と記号の関係に置き替えられたのだと思います。

したがって、

グリムの『文藝通信』に断続的に掲載されたサロンの批評(「サロン評」)によって近代的美術批評の祖ともされる。その批評論は『絵画論』(Essai sur la peinture, 1766年刊)に結実した。

ドゥニ・ディドロ - Wikipedia

となります。

グリムは、ご存じと思いますが、

1802年彼はマールブルク大学に入学、そこでフリードリヒ・フォン・サヴィニーの元で法学を学んだ。彼の法制史の研究とヴァッハラーの講義により、彼はドイツ語とその文学の歴史的な発展に注意を向けるようになる。

ヤーコプ・グリム - Wikipedia

この後、サヴィニーと袂を分かたようです。

サヴィニーらロマニステンの法研究を民衆から乖離した法であると糾弾してから、「自由民を主体とするゲルマン民族社会=自由主義を中核としたドイツ民族国家」という構図が描かれる

ゲルマニステン - Wikipedia

ルソーは全体主義の祖と言われますし、ゲルマン法学もついにはナチスに利用されたようですね。それを以てグリムをナチズムの関係者と見做すのはどうかとお思いますが(歴史法学は近代国家建設の当時のセオリーでしたから、世界中に輸出され、日本もアメリカもそれに倣いました。)、ルソーは差別主義者でした(グリムについては知りません)。

それを含めて、戦前の思想は所詮、戦前の思想です。戦後では骨董として展示ケースの中にしか存在しません。

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表示と本質を分けて考えなければなりませんし、本質的でないからと言って、機能的であることまで否定する必要はありません。

実存は本質に先立つ - Wikipedia

この意味で、主体(内在的意味=内来的意味)を本質(外来的意味)と区別するのでしょうが、「規約」を強調するか、〈私〉を強調するかでニュアンスが異な(り、時に鋭く対立す)るようですね。しかし、〈私〉を強調する場合、主体こそ本質と言ってよいと思います、その場合、再帰的ですが(「」と〈〉の違いもここです)。

ルソーは政治的デカルトを発展させたのだと思います。デカルトはあくまで近代的近世に留まりましたが。私たちが「我思うゆえに我あり」で想起する内容は、おそらくルソーのものです、デカルトの「神の存在証明」で想起する内容がカントのものだったように。

社会契約論は、モデル論の嚆矢であって(ですから素朴です。)、幻想ではありません。そう理解することが、社会建設に於いて、説得的な内容を伴っているかどうかが問題です。そういった意味で、規約的です。
戦後流行った「幻想論」は心理主義に過ぎません。社会契約論は、その意味では、論理主義(の先駆け)です。ホッブスがまさにそうであったように。その点でホッブスは歴史に名を遺すのです。