悲劇である『オセロ』と喜劇である『ヴェニスの商人』はセットであると考えるとわかりやすい。
特に、2に関して、『ヴェニスの商人』では比較的わかりやすいが、『オセロ』ではわかりにくく隠されているのではないか、ということである。ひとつには、ユダヤ人にも変遷があるからである(一貫してユダヤ人が卑下されている一方で、セファルディムの優位からアシュケナジムの優位への劇的な変化)
シャイロックの時代のユダヤ人--スパラートとリヴォルノ/斉藤 寛海/一橋論叢
14世紀には、追放、そして貸金の恣意的な取り消しによって多くのユダヤ人金貸しの資産が大幅に減少した。規制が緩和され、業界にはキリスト教徒の競争相手がどんどん乗り込んできた。ユダヤ人は質屋への鞍替えを余儀なくされたが、この仕事は土地や家を人々から取り上げるため、特に忌まわしい職業と見なされていた。
「約因」に関して、牽連性から考えるとわかりやすいかもしれない。
そうすると、留置権がローマ法に起源を有し、ドイツ法、フランス法などで発達し、その後、ロンドン市場での信託に
(留置権に関する一考察,尾中 普子,1-20より)
その他に
留置権の「対抗可能性」に関する一考察 /慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA) - XooNIps
これに対して、英米法では、Possessory lienとCommon law lienなるものがあったらしい。
—Possessory lienとCommon law lienを説明してください
「Possessory lien(保持担保権)」とは、債務者が債務の履行を行わない場合に、債権者が債務の担保として債務者の財産を所有する権利を持つことを指します。具体的には、債務者が支払いを行わない場合に、債権者は所有物を保持し、その所有物を売却または処分することで債務の回収を試みることができます。保持担保権は通常、物的な財産(例: 自動車、家具、機械など)に関連しています。
一方、「Common law lien(共通法担保権)」は、一般的な法律原則に基づく担保権の一形態です。Common lawは英国およびその他の共通法体系を持つ国々で適用される法律です。Common law lienは、債務者が支払いを行わない場合に、債権者が所有物を保持し、その物を売却または処分する権利を持つものを指します。具体的な条件や手続きは国や地域によって異なる場合があります。
共通している点は、どちらの担保権も債務者が支払いを履行しない場合に債権者が所有物を保持することができる点です。ただし、具体的な要件や法的手続きは国や地域の法律によって異なるため、詳細な情報は該当する法律体系や地域の法律を参照する必要があります。
—代物弁済に関して、ローマ法、フランス法、ドイツ法、英米法の発展に違いはありましたか
代物弁済に関して、ローマ法、フランス法、ドイツ法、英米法の発展にはいくつかの違いがあります。
- ローマ法(古代ローマ法):古代ローマ法では、代物弁済(datio in solutum)が認められていました。債務者は債権者に代わって特定の物品を提供することで債務を履行することができました。ローマ法では契約の履行方法として代物弁済が重要な位置を占めており、債権者は代物弁済を受け入れることが求められました。
- フランス法:フランス法では、代物弁済(paiement en nature)は契約の一形態として認められていますが、一般的には通貨による金銭支払いが優先されます。代物弁済は例外的な手段として使用され、債権者の同意が必要とされる場合があります。
- ドイツ法:ドイツ法では、代物弁済(Sachleistung)は一般的に認められています。債務者は債権者に物品を提供することで債務を履行することができます。ただし、契約や法律によって金銭支払いが優先される場合もあります。
- 英米法:英米法では、代物弁済(specific performance)は一般的には契約違反時の救済措置として認められます。債務者が契約を遵守せず、金銭ではなく特定の物品やサービスを提供することが求められる場合があります。ただし、代物弁済は特別な条件を満たす場合に限られ、一般的には金銭による損害賠償が一般的です。
これらの法体系は、歴史的・文化的な背景や法的な発展によって異なるアプローチを取っています。代物弁済の扱いに関しては、それぞれの法体系の特定の法律や判例に基づいて詳細が定められています。
—代物弁済の英米法の発展の歴史を知るための文献を紹介してください
以下は、英米法における代物弁済の発展に関する参考文献の一部です。これらの文献は、代物弁済に関する歴史的な背景や法的な進化について詳細な情報を提供しています。
1. "Specific Performance" by A. R. Blackshield and P. F. Cane (Oxford University Press, 2002) - この本は、英米法における具体強制(specific performance)と代物弁済の概念、原則、発展について包括的に解説しています。
2. "Equitable Remedies" by H. G. Beale and M. P. Furmston (Sweet & Maxwell, 2002) - この書籍は、英国の裁判所による具体強制命令と代物弁済の歴史的な発展と適用について詳しく説明しています。
3. "Specific Performance in German, French and Dutch Law in the Nineteenth Century" by Randall Lesaffer (Cambridge University Press, 2010) - この著作は、英米法と比較しながら、19世紀のドイツ法、フランス法、オランダ法における代物弁済の発展と影響に焦点を当てています。
4. "Specific Performance: The Law in a Nutshell" by Richard E. Speidel (West Academic Publishing, 2016) - この参考書は、代物弁済の基本的な原則や英米法における発展について簡潔にまとめています。
これらの文献は英米法における代物弁済の歴史や法的な進化について詳細な情報を提供していますが、専門的な内容も含まれる場合があります。したがって、具体的な研究目的や関心事に合わせて文献を選択し、適切な範囲で参考にしてください。
だそうである。
この書籍については古書だけに
で読める。
『ヴェニスの商人』は1594年に書かれたが、
自由なイングランドの民は、国法か裁判によらなければ自由や生命、財産を侵されない。(第38条)
例えば、自分が所有する唯一の乳牛なのに、隣人の土地に迷い込んだまま、どうしても返してもらえないような場合、原告としては、その乳牛を返してほしいだけであって、金銭的価値の返還を受けることは望んでいないことが多い
17世紀きっての法学者であるジョン・セルデンは、「エクイティは、大法官の足の長さに応じて変わる。」と批判した。
権利の請願の起草に参加した、ジョン・セルデン(1584-1654)の10歳のときである。
興味深いことに、古代法並びに中東の研究者だったらしい。
一方、心臓については
すなわち、心室中隔には孔など開いておらず、肺の血管を通っているのは「気」ではなく「血液」であることなどを調べ上げたのです。「血液が動脈を通って全身に行きわたるのは、我が英国のテームズ川が海に注ぎこむごとく確かです」と誇らしく書き送った手紙も残されています。
昆虫レベルの解剖しかしていなかったのだろうか?
ヘモシアニンは本来は無色透明だが、酸素と結びつくことで銅イオン由来の青色になる。
昆虫の血は「赤くない」。なぜなら、という話。
「昆虫の血液は緑色」というイメージが強いと思いますが、
「ポモ」ってなんで求められるかを端的に示している。
イスラム神学の欠如である。
デカルトの言ったことも、ライプニッツが言っていることも、ガザーリーがすでに述べていることばかりである。
実体形相の積極的導入が、ドゥルーズのいう対応の関係から所有の関係への転換となるのである。実体形相によって物体や事象性をもつ現象まで視野におさめた広い意味での身体の統一が獲得される。
G.W. ライプニッツ. 形而上学叙説 ライプニッツ-アルノー往復書簡 (平凡社ライブラリー794) (p.299). 平凡社. Kindle 版.
なぜ、宮台真司の言うことが(一世を風靡したにも関わらず)馬鹿げているかというと、所詮はドイツ人の受け売りだからであるのは、喜劇こそが、近代への扉だったからである。東浩紀の言うことが(一世を風靡したにも関わらず)馬鹿げているとしたら、イスラム神学の影響を無視するヨーロッパの伝統に沿っているからである。
ただ、それは、夏目漱石もそうだったから仕方がないのかもしれない、というだけのことである。別に馬鹿にしているわけではない。誰しも限界はある。
昨日の金沢のニュースでプログラミング教室の先生(現役のプログラマー)が言っていたツールとしての利用の仕方で「それくらいのことならまずAIに聞いてみて」が今のところ正しい「距離の取り方」かと思う。
- 頼らない
- 先生ばかりに頼らない
ということがChatGTPを間に置くことで実現でき、一方で、自発的な創意工夫も促している。自動車だって、
- 操作できなければ、利便性を享受できない
- そもそも実現できないことがある
ことを利用して、リスク(すなわち、コスト)を受け入れているんだからね。そういった意味でまさしくツールだよね。検索機能がついて、ますます「評判機能」が強化された(効率的な「誰かに聞いてみる」ことの、伝え方の発達—AIに人格があるかを考える時に、「内心」というブラックボックスの役割を機械生成が果たしている。所詮は、人に紐づく。そえが直接でないだけで、ブラックボックスの向こうには人しかいない)。馬しかなかった時代に鉄道が生まれたことを考えると。
前回の授業でハムレットがオフィーリアに宛てたラブレターをポローニアスが王&王妃に読んで聞かせる場面を扱った際に、ハムレットのラブレターの出来加減が議論になったのだけど、「当時AIがあったらこんなラブレター書いたんだろう」という発言があって、とても面白かった
— Ikuko Kometani🍚 (@ikometani) May 27, 2023
やや、8000円出した価値があった。やったぜ。
地中海世界の拡大と共に、お手本をマネぶことが必須の教養だったのだ。
書簡は定型文だからけなのだ。
Chat君に訳してもらった
「Moi, qui ne suis qu'un homme fanant, ignorant quel est l'art de plaire, je ne fais l'amour qu'en pédant ; aussi l'amour m'est toujours contraire」というフレーズを日本語に翻訳すると以下のようになります:
「私は衰えゆくただの人間であり、魅力のある方法を知らず、恋愛を知識のみで追求します。そのため、恋愛は私にとって常に逆境です。」
1576年にベルギーのアントウェルペン(英語名:アントワープ)のIan Waesbergheが出版したらしいJean Boullierの”Lettres commvnes et familieres”(『一般的な手紙と親しみを込めた手紙』)を探したが、見つからなかった(上掲P.312)。
「Vous aimerez par amitié, un amant qui pour vous soupire. C'est amant vous gagne à moitié. L'amour finit ce qu'il désire. Et voilà comme vous perdrez, ma demoiselle, l'indifférence dont vous tirez vanité」というフレーズを日本語に翻訳すると以下のようになります:
「友情によって愛するでしょう、あなたにため息をつく恋人を。この恋人はあなたの半分を手に入れます。愛は望むものを達成します。そして、こうしてあなたは失うことになるでしょう、私のお嬢さん、あなたが得意に思っている無関心を。」
こういったところに『フランシス・ソヴァ―ル』の原型があったようである。
「友情によって愛する」という考え方がすでにあったのだ。
知らなかった。
markovproperty.hatenadiary.com
markovproperty.hatenadiary.com
Whatever I predict either will happen or will not. 142
142. Horace Satires 2. 5. 59.
On pleasure = De voluptate by Valla, Lorenzo, 1407-1457|Internet Archive
—Whatever I predict either will happen or will not. 意味
この文の意味は、私たちが予測することが起こるかどうか、または起こらないかどうかに関係なく、予測は存在するということです。予測は現実に起こるかどうかとは独立して存在します。ただし、予測と実際の結果が一致する場合もあれば、一致しない場合もあります。この文は、予測と結果の関係については言及していません。
—次の英文を日本語に翻訳してください
おそらく、今は私にピタゴラスとプラトンの魂の転生の教義について話すように頼んでいるのでしょう。この教義はウェルギリウスが次のように述べたものです。
「彼らが再び体に戻りたくなるために。」
ポルフィリオスやアプレイウスといった偉大なプラトニストの二人も、この教義に反対する哲学者たちに対して支持する勇気を持ちませんでした。もう少し後に、同様に偉大なプラトニストの一人であるマクロビウスは、プラトンの『タイマイオス』やプロティノスから多くの要素を借りながら、この教義を非常に不安げでためらいながら論じていたため、まるでトゲの上をつま先で歩いているかのように見えます。マルクス・テレンティウス・ウァッロは以前にこの教義に反対し、ホラティウスが言うように、預言者ティレシアスのような夢の中で語っていました。
「私が予測することは、起こるか起こらないかのどちらかだ。」
この教義がいかにばかげているかを示すもう一つの証拠は次の通りです。この理論の考案者であるピタゴラス、それどころかこの狂気の考案者は、他の人々をその真実性に納得させようとしたとき、自分自身さえも納得させることはありませんでした。彼は自分がトロイア戦争の時にユーフォルボスであったことを覚えていると言い、自分が撃たれた槍が(おそらくトロイ近くで真のユーフォルボスが殺されたわけではなく、そのキャラクターは詩人によって創作されたかもしれないが)寺院に掛かっているのを認識したと言いました。その後、彼はピランダーであり、次にタリデナであり、そして(全ての女性の好意を引くために)アルコン、美しい女性ですが娼婦でもありました。どんな奇妙な運命によってこの記憶の恵みはこのピタゴラスにのみ与えられたのでしょ
うか?ああ、哀れな弁護士よ、あなたは証人として自分自身以外の証人を見つけることができない、当事者の一人が公正な証人にもなり得るかのように!しかし、彼には証人なしで行動することが十分でした。彼は信じてもらえる人々がいたのです。
142. ホラティウス『風刺詩集』2. 5. 59.
脚注142にある「ホレス風刺 2. 5. 59.」を見ると、
0 Laertiade, quidquid dicam, aut erit aut non : Divinare etenim magnus mihi donat Apollo.
(P.218)
0 Laertiade, quidquid dicam, aut erit aut non : etenim magnus Apollo mihi donat divinare.
(P.219)
—0 Laertiade, quidquid dicam, aut erit aut non : Divinare etenim magnus mihi donat Apollo.
を日本語に翻訳
ラエルティアデスよ、私が言ったことは、それが実現するかしないかのどちらかになるだろう。なぜなら、偉大なアポロが私に予知の力を授けてくれるからだ。
—0 Laertiade, quidquid dicam, aut erit aut non : etenim magnus Apollo mihi donat divinare.
を日本語に翻訳
ラエルティアデスよ、私が言うことは、それが起こるか起こらないかのどちらかになるでしょう。なぜなら、偉大なアポロが私に予知の力を与えてくれるからです。
—
0 Laertiade, quidquid dicam, aut erit aut non : Divinare etenim magnus mihi donat Apollo.
と
0 Laertiade, quidquid dicam, aut erit aut non : etenim magnus Apollo mihi donat divinare.
の違い
両方の文はほぼ同じ意味を表していますが、微妙な違いがあります。
最初の文「0 Laertiade, quidquid dicam, aut erit aut non: Divinare etenim magnus mihi donat Apollo.」では、話者が予知の力を持っていると主張しています。「Divinare etenim magnus mihi donat Apollo」というフレーズは、「予知することは、実現するかしないかのどちらかである。なぜなら、偉大なアポロが私に予知の力を授けてくれるからだ」という意味です。
一方、2番目の文「0 Laertiade, quidquid dicam, aut erit aut non: etenim magnus Apollo mihi donat divinare.」では、話者が予知の力を与えられていることを述べています。「etenim magnus Apollo mihi donat divinare」というフレーズは、「なぜなら、偉大なアポロが私に予知の力を与えてくれるからだ」という意味です。
要するに、両方の文は予知の力を持っていることを強調していますが、最初の文では話者が予知の力を受け取ったことを明確に述べています。
— - Oui , s'écria le plus jeune des Granville ; et pour ma part, je veux croire que son histoire ne s'arrête pas à cette lettre, et qu'il sera récompensé. を和訳
「はい、」グランヴィル家の末っ子が叫びました。「私としては、彼の物語がこの手紙で終わらないこと、そして彼が報われることを信じたいです。」
わ
★★★★☆ 実に面白いが、エピクロス主義の曲解も含んでいるため注意
2015年3月12日に日本でレビュー済みしかし、ここで注意しなければならないのはエピクロス主義の曲解である。エピクロス派は「快楽主義」という名前から「今が楽しければそれでいいから快楽を追求しよう」という刹那主義と混同されやすいのだが、この本でもそのような混同が多々見られる。
そもそもエピクロスの主張は「煩いの少ないささやかな快楽を追求する」というものであって、快楽なら何でも万歳という思想では決してない。現にエピクロスは「性交は益にならない」、「金を増やすより欲を減らせ」などと言っており、質素な生活の中での快楽を目指している。
その点で、本書はエピクロスと快楽主義の看板だけ借りただけで中身は別物と言わざるを得ない。 キリスト教により禁欲主義的だった時代にエピクロス派の主張が魅力的に見えたのは当然だが、こうした曲解はどうかと思う。
レオン・ワルラスは、正しく理解していたようだ。
「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」とハムレットのセリフを訳したのは河合祥一郎さんが最初である
— 小谷野敦とちおとめのババ・バロネッタ (@tonton1965) May 26, 2023
1601年の『ハムレット』は、1858年の”Whatever I predict either will happen or will not.”に行き着いたようです。
- 考察・研究している対象の中に階層構造を見つけ出し、上位階層において成立する基本法則や基本概念が、「いつでも必ずそれより一つ下位の法則と概念で書き換えが可能」としてしまう考え方のこと[1]。
- 複雑な物事でも、それを構成する要素に分解し、それらの個別(一部)の要素だけを理解すれば、元の複雑な物事全体の性質や振る舞いもすべて理解できるはずだ、と想定する考え方
要は、階層化ゆえの関係論で、始原が外部/内部に持つかの議論を通して自己再帰(ゆえのパラドクス)を必然的に伴い、無限論を喚起する。
無限は神学的な問いであり、パラドックスはきわめて、スコラ的な問いだったのだ。
近世のスコラ哲学において、フランシスコ・スアレスの影響が大きく、その『形而上学討論集』(1595年)では四原因論の解説における作用因の中核化が見られる。17世紀オランダのアドリアン・ヘーレボールト(Heereboord)らによれば、質料因と形相因とが内的原因(causa interna) ないしは内在原因(causa intrinseca) に、目的因と作用因とが外的原因(causa externa)ないし外在原因(causa extrinseca) に割り振られた。スピノザはこの分類図式を踏襲しつつ組み替えた(鈴木泉「スピノザと中世スコラ哲学――(自己)原因概念を中心に――」『中世思想研究』第47号、二〇〇五年)。スピノザ著『エチカ』は目的因を認めず、その第一部附録で原因であるものを結果と見なし結果であるものを原因と見なす顛倒であると難じ、第四部序言で目的原因とは実際には作用因であるところの衝動だと断じている。
ガザーリーの第8問題乃至第20問題である。つまり、宇宙に始まりはあるかは、キリスト教の画期が、無から有を生み出したことにあるかと裏腹で在る。
ワルラスがスピノザを論敵としたのは、なぜだった(Why)。またブールがスピノザを研究したのは、何だったか(How)。
還元主義による手法では理解し難い対象も存在するという考え方は、デカルトの時代以前からすでにあった。例えば、アリストテレスは「全体とは、部分の総和以上のなにかである 」と述べている。 全体性を見失わない考え方は「ホーリズム(Holism)」と呼ばれている。
「唯物論」と言う呼び名は、17世紀西欧に遡る。17世紀末、ライプニッツは、すべての実体を物体的なものであるとするエピクロスにならう者たちを『materialistes』と呼び、デモクリトス主義者やホッブスの名をあげ、不敬を醸成する者たちとした。同時に、自然学において目的因を認めない機械論的哲学や原子論を、敬虔であろうとする姿勢にとって危険なものとした。
しかし、それでもライプニッツは、
法学上の債務論を模した目的因による叙述的数学によって、公理的確率論の父である。
すなわち、数学には、計算的側面と叙述的側面の両方が演繹と帰納を伴ってある。
ライプニッツの叙述的数学が、目的因を還元主義の立場をして、無限小を主張せしめた。デモクリトス、ライプニッツ、ロビンソン、ルクセンブルクの立場であり(P.19『数学100の発見』)、エウドクソス(ユークリッド)、アルキメデス、ニュートン、ボルツァーノ、コーシーの立場と対立する。論理主義でも、ヴィトゲンシュタインは前者の立場であり、ラッセルは後者の立場であろう。2人確執の原因はここにある。
ここから、ヴィトゲンシュタインを誤解したと解説される、クリプケンシュタインこと、クリプキは、方法論的ホーリズムの立場を採る。
1655年に出版した『物体論』(De Corpore)内で円積問題の解を見つけたと公表し、数学者のジョン・ウォリスとの論争に発展した。ホッブズの哲学は公理系を元に構築する幾何学的な考え方を元にしていたが、円積問題については終始、本質を理解することができず、誤りを自覚できずに死ぬまで激しい論争を続けた(ホッブズとウォリスの論争(英語版))[要出典]。
ホッブスの論敵の一人は、ジョン・ウォリスであった。ホッブスの「唯物論」は素朴実在論でないかと思う。
この叙述的側面から、完全な演繹体系を目指したのがカント・プログラムであったが、量子論の帰納的アイデアからこれを否定したのが、フォン・ノイマンである。
「唯物論」と安易に言ってしまうと混乱する理由がここにある。
神学的に輻輳した問いだからだ。
また、往々にして、素朴実在論と混同されてしまう。ホッブスは唯物論者であるが、幾何的世界観に立って、それゆえに神学的である。幾何的世界観は、エーテルとも関係が深い。現代物理学を創出したアインシュタインでさえ、(独自の)エーテル論者である(であるが、もちろんホッブスと異なり解析的方法論を採って、それが幾何的調和を保っている。ウォリスの直系であるニュートンだって解析主義者であるが、一方で、グノーシス主義を信仰する神秘論者であった)。調和に関する還元主義で、そこでは、階層化から理解できる。還元主義は、階層化と要素化の双方から成り立っているのだ。外部/内部の問題ですら(これは結局、無限を内部化するか、外部化するかであり、それは結局、無限を、可能/不可能を巡る、概念上の問題と考えるか、表示上の問題と考えるかであるが)、一種の階層化の問題ともなりうるのは、今では〈クラス〉と〈タイプ〉の違いからわかる。
信念や信仰の問題もさることながら、発展史上の未熟/成熟の問題もあるのであった。
「唯物論」はひとつのマジックワードに過ぎず、「還元主義」もそうであるが、否定的ニュアンスを持った主張に伴う語彙であると解した方が穏当であると思う。
そこで問題にされているのが、何に対する否定を目的としているかである。
すなわち、目的論的語法(語彙)の問題である。