面白かった。
「論旨」と「趣旨」ね。
- 論旨を展開する
- 趣旨を( )する
( )の中には何が入るでしょう。理解、斟酌(汲み取る意)だろうか。
斟酌には「照らし合わせる」意味があるから、論旨の「繋がりを確認する」
- 論う
- 趣(く)
訓読したとき、( )の中には何が入るでしょう。(趣)く。
ここから、道標で示されるテキスト(の評価。内在的分析)/「テキスト」を浮標とする主体(外在的乃至背景分析)、論議/議論、ブール&パース/フッサール&メルロー=ポンティの違いに進めたら。
- 「趣旨」とは、著者の主張の主たる内容を、そのように主張し得る背景を含めて説明すること
- 「論旨」とは、どのような手続きに沿って正当な評価を得られると主張しているかを説明すること
だと仮定することとする。言い換えれば、「趣旨」は「議論」の成立について、「論旨」が「論議」の成立について、著者の主張を説明することと言えるかもしれない。「趣旨」には相対的な(複数の)「論」の成立が措定されている、「論旨」には運用の「義」(正しさ)が措定されていると言えるかもしれない。
「文系」と「理系」という分け方が優れているかはわからない。しかし、学問にはそれぞれに妥当な主張の仕方があることを示唆しているように思える。
この観点からは『ごんぎつね』は、趣旨を斟酌する読解が求められるんだね(だから、その極北として、社会主義的読解も「ある」。主体問題だから。実際に、現場で、国語の先生が教えていたようで、授業ノートがネット上にあった)。
基本的に、諸シンボル乃至テキスト群を関係づけて、場面展開を理解するものであって、「「気持ち」を理解する」ものではない。やはり文法理解が鍵となるが、背景理解が錠となる。
最近は『ごんぎつね』が読めないらしいが、本当だろうか?
例えば、ChatGTPは、
- あの子はごはんも食べないしゲームばかりしている
- あの子はごはんも食べないでゲームばかりしている
を
—「あの子はごはんも食べないしゲームばかりしている」「あの子はごはんも食べないでゲームばかりしている」のいずれか一方は文法上間違っています。どちらですか
「あの子はごはんも食べないしゲームばかりしている」および「あの子はごはんも食べないでゲームばかりしている」のいずれも文法的に正しい表現です。どちらも、「ごはんも食べない」や「ごはんも食べないで」が「ゲームばかりしている」という状態を表現しています。文の選択は、意味や強調したい点によって変わることがあります。
正しく読み取れない。
- 【誤】あの子はごはんも食べない〈し〉ゲームばかりしている
- 【正】あの子はごはんも食べない〈で〉ゲームばかりしている
であるとき、〈し〉は同類の事柄を列挙し(また、「するから」の形で、同類の事柄を列挙して、それがあとの事柄の原因であることを示す)のに対し、〈で〉は対比を現す(「たべずに」の「に」ならば、逆接の『・・・にもかかわらず』『・・・だのに』の意を表す場合がある)。いずれも現代国語例解辞典巻末「助詞・助動詞解説」より(ただし、例文は独自)。
markovproperty.hatenadiary.com
ChatGTPは言語学上の文法しか持たない?
問題にしたいのは、文法(理解)を鍵とした背景情報の読み取りである。
2の文とその解説は現代国語例解辞典巻末「助詞・助動詞解説」より。
- あの子はごはんも食べないでゲームばかりしている
- 雨もあがったしそろそろでかけよう
の〈も〉と〈し〉である。「一つの事柄しかあげない場合もあるが、これはそれ以外の事柄を言外にこめて暗示する用法」である(文1も同様である)。
例えば、このとき、
- 「あの子はごはんも食べないし。ゲームばかりしている」
だとどうだろう。会話ながら独りごちている、といった塞いだ様子がうかがえる。句点で区切っているとはいえ、矛盾であるが、つまり、語用である。そうすると、最初の文法問題の隠れたネックは「あの子」という親しみを込めた呼称だったとわかる。
ニーチェは発狂したために世間がニーチェに関心を持ち始めたそうだ。かわいそうに
— 小谷野敦アンチTRA🦖 (@tonton1965) November 23, 2023
俺は死んでもニュースにならない。正気に立ちかえらないと。
面白そうだと思うんだけど、ただ「加害と被害の密接な関係性」を描いた作品だっていうコメント、「馬と落馬の密接な関係性」を描いています、みたいな感じで無意味なような…/寺山修司「不思議な国のエロス」を稲葉賀恵が演出、非戦のための女たちのストライキ描く https://t.co/Y6LFFqjOID
— saebou (@Cristoforou) November 23, 2023
なるほどね。もちろん、被害と加害は、害に関して行為に着目した対照化で、ここで「対象化」とは{被る}と{加える}のそれぞれの内包する多様な意味合いの中から害の性質を特定してゆく作用を持つが—{被る}と{覆う}ではなく{加える}と{減じる}で特定される内容ではない—その作用機序に於いて、〈粗密〉〈遠近〉の対象で測られる要素をいくつか持ってそれが〈密〉かつ〈接〉な関係で説明される内容である、という理解だろうか。具体例を挙げると、復讐ということがあって、これは、被害者と感情を共有する主体が共有するがゆえに加害者となる場合であって、この場合、2つの加害行為が連鎖的に起こっていることを言う。
この場合、「趣旨」の説明に努めたつもりであるが、どうだろうか。
言葉の正しさからは理解しづらい点を、概念の成立を背景に、著者主張の行く先を想像して説明を試みた次第である。この主張に必ずしも納得できないかもしれない。しかし、これが彼女の意見だと思うのである。
國分功一郎(著)『近代政治哲学:自然・主権・行政』(ちくま新書2015)を読みました。ホッブズからカントまでを章ごとに論じる、標準的な政治思想史のテキストかと思いきや、思想史ではあまり注目されない行政権の位置付けが一つのテーマとなっており、独自性のある入門書となっています。(続) pic.twitter.com/514UGuWaYx
— 玉手 慎太郎 (@Tama_Goldheart) November 24, 2023
上手いね。スピノザを出すあたりが学者のセンスだよね。
「先生」だと端折りがちなんだよね。だからスピノザって「なんかよくわからないそれでも偉大な哲学者」になっちゃう。歴史的な人物でしょう。