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こういう質問を作って得意気になっているかというと、そうでもなく、ようやくなんとか「具」が揃いだしたような気がするだけで、これは嫌味な謙遜ではなく、結局、質問には「質問構造」があって、それが適切に採れてないと、質問の意味をなさないって恐れているんだよね。

これではないけれど、以前、この手の雑誌を手に取ってある問題に目をやると、子どもたちが上手く答えられない質問についての相談があって、それにテクニカルに雑誌で答えていたんだけれど、

 いや、そもそも、それだと問題になってないよ。問題を隠しちゃっている

と思ったことがあった。それだと単に授業で習った知識を書くだけになるのだけれど、それが悪いわけじゃない。そういった問題も必要だけれど、この問題の企図が、子どもたちに「自分で」考えさせることだったんだね。それは問題の構造上、不可能だったんだよ。

質問するときには、質問構造に沿って、質問しないと意味がない。
だから、質問するときには、(企図した通りに答えられるかの)妥当な質問構造を持っているかの確認が必要なんだよ。


誰でも先生になれるのか?
こう考えると、厳しいよね。

  1. 学級経営
  2. 生活指導
  3. 教科指導
  4. 教科外活動指導
  5. 委員会等校務活動
  6. その他(間接的活動。学校運営、PTA活動、その他教員資格に付随する活動など)

とあったら(知らないけれど。)、意外に、教科指導の順序って低くて、「学校は勉強しにいくところ」なのだけれど、学校制度の目的が、そもそも「社会成員の再生産」にあるから、「社会活動」の一環として配置されるよう、しかし「部分社会」としてその他の社会活動から直接影響を受けないよう構成されている。

そうすると、「2生活活動」の位置づけが難しくて、高校なんか行くと「生活指導」の教諭が居てそういう特別の活動ではなく、例えば、「チャイムが鳴ったら席に着く」であるとか「グラウンドから校内に入ったら、手を洗う」であるとか、授業(開始)に付随すること、或いは休み時間=非授業時間の過ごし方に付随することである。

簡単に言うと、まず席につかなければ授業にならない、ということであるし、授業中に騒々しかったら授業にならないということである。教科学習の内容(interior)なのか、周縁(boundary)なのかである。

ただし、付随関係であるから、1乃至3は、分離できない。このとき、「3教科学習」に動機づけられやすいと、塾講師(外部経済)の内部化(=外部調達)に不満を抱くことになるが、そもそも、意味あいが異なって、塾とは、要は、技術のばら売りであるところ、ヒエラルキー構造が、(よく自動車産業が引き合いに出され、従来の教師もこれと等しく、すり合わせを繰り返す、  的ヒエラルキーであるところ、塾、というか、塾講師の外部調達の場合そうではなく)、所謂「モジュール型」の  的ヒエラルキーであって、それとのアマルガムになるとき、従来の「すり合わせ」コストが相対的に高くなる。これに不公平感を覚えてしまうようだ(そりゃ、そうだ。本当は、P乃至APくらいの話で、役割が違う。要は、BОSSだが、実感がわかない)。

 

そもそも、この話は、「教員不足」という供給制約上の限界の話であって、そのための措置なのであるが、経常経費として教員を増やせない理由があるのか、塾講師の雇用費用は固定費ではないのか、どうなっているのだろう。要は、非会計年度任用職員(所謂、臨職さん)ということなのか、会計年度任用職員のパートさんなのか。ボーナスでるのかでないのか。派遣なので、本籍を置く塾から福利厚生が保障されているから、それでいいのか。それはわからないが、とにかく、本採用の教師を増やさない意志を強く感じる。職員室が狭いのかもしれない(意外に悩みの種である。ちなみに、アメリカの小学校には、そもそも職員室がない。どうやっているのかわからない)。

すなわち、

  1. 供給制約
  2. 制度制約
  3. 構造制約

と言ってもよくわからないが、いくつかの制約がある。
そのうち、授業に絞っても、

  1. 児童心理(発達心理)の理解
  2. 児童生理及び病理の理解
  3. 教科(単元)内容の理解
  4. 授業構成法・指導法の習熟
  5. 問題作成技術の会得
  6. 評価方法の

なんだろうということで、結構大変である。こうやって見ると、まぁ、そりゃ忙しかろうと思う次第である(態度が ヤカラ そのものなのは、度し難いが。医者と教員の態度だけは、なんとかならないのか、と思う次第である)。ただ、忙しいのとクレームで、常時精神病でなければ単純に社会性の欠如なのだろうと憐れんでいる(以前、Mというテレビで引っ張りだこだった医師が、どれだけ大変かを説明するときに、帰れずに床に寝て翌日も出勤云々と言っていて、それは確かに大変なのだが、それを毎日繰り返しているADの前で平然と被害者ぶるのであるから、自分たちが何か特別と思っているのでなければ、ただのKYという病気である。恥ずかしいということがわからないらしかった。ブラウン管に沁みいるセミの声がブラウン管の中から聞こえて来て風情を感じた次第である)。それがわかるようになってくる頃にはただ殺伐とするのだろう。
大変な仕事のわりに同情されにくい。こういうこともあって、保護者としても、誰も彼も、一家言持つのでなければ、肚に何かしら持っている(理解不足による誤解や事故が極めて多いのが特徴的であるが、そればかりとも言えない)。

 

 

だったら、バウチャーなり、自分で選べる補助金でいいじゃないかと納税者は思うところであるが、財務省としては、そんなわけにもゆくまい。
なぜなら、厚生を満足させるには、「十分金を市中に回す」必要があって、どうにも「懐に収める」可能性がわずかでもあれば、その分、期待が小さくなるのだ。
財務省主計局は、胸を張って言える。「間違いなく使い切る」と。そりゃそうだ、他人の金だから。なにしろ、使うことに限って言えば無双並みの自信があるから、自分(財務省)が、使う。
それどころか、収めて配るなら、最初から取るなと言い出しかねないから、絶対に配って、配っては取るのであった。自分たちは「心臓」だと気を吐く。