だから、上杉慎吉の後に、上野千鶴子に興味をもってもいいかなと思わないではない。

あくまで、日本の近代化の顛末の理解を深めるためだ。

すなわち、上杉が「顛」で、上野が「末」だ。

両者とも支藩(上杉は大聖寺藩医の息子であったし、上野は富山の医者の娘だ。)から金沢に上ってきたのであるし、論争的なのも共通している。もちろん、両者とも、女権論者だ。もちろん、対照的な議論を展開してきたが、しかし、上野の議論をよく見ると、神学論争を踏まえている。きわめて戦前的だ。だからこそ、上野は、「戦後」的である。上野が「シニカル」な理由がここにある。

【追記】

人と人との間に契約だの権利だの所有だのという関係が入るのが、どうしても認められない。だから結婚に魅力を感じたことは一度もありません。
・・・性的な身体の自由はとりわけ重要なものだと思っています。それを結婚によって手放すなんて、考えただけで恐ろしいくらいです

文春砲「上野千鶴子氏が入籍」はミスリードの疑い 養子縁組の可能性も|楊井人文のニュースの読み方

上野千鶴子に聞いてみないと正味のところはわからないが、楊井人文の主張をこの限りで受け入れ、楊井さんに感謝申し上げるとともに、理解不足を上野さんにお詫び申し上げます。

上野は個人主義ではなく、孤独主義に立つのではないかと考えたが、反孤独主義であるがゆえに、反個人主義であったらしい。ただし、上野の考える「個人主義」という限定的な理解になるだろうと思う—だから、人権思想や人権宣言を標榜する日本国憲法との関係は今のところ断定できない。

私の主張の一つは、(上杉が代表した)戦前の革命思想は「公権」であって、「人権」は技術的に未成熟だったために、人権思想家は居ても、制度化するのは難しかったが、上杉は吉野作造のような「現実主義者」と違って、大陸思想を理解して「(条件を付さない)男女同権」を唯一主張できたというものである(この限りで、ルソーよりも進んでいる)。

ここに日本の戦後を近代化からあらためて考える意義が生まれる。
戦前ー戦後ではなく、戦前(体制ー反体制)ー戦後(/「戦後」)である。
このとき、反体制を「反体制」と概念づけている機序が、「実在」の公理化に関わる論理主義と科学革命である。このとき、「独立」と「対象」が明確に概念化されたのではないかと思っている。近代化とはキリスト教社会からポストキリスト教社会へ移行する動向であるが、必ずしもキリスト教を棄教したのではない。善の実現に必ずしも神を理由づけることがなくなった。しかし、神学のロジックは残ったのである(それはゲーデルによって現代にも受け継がれている—のであるから、どのように受け継がれたかを考察することが近代化の鍵を解くことにもつながると思う)。

論理主義に始まり、公理的確率論に納まった一連の革命は、「実在」の概念化を巡る変革であったが、それを神学によって鍛えられたロジックを使って社会制度化するときに、幾何的世界観から解析的世界観の流れに反発したオカルトブームが全世界的に広がったのである。「ロック」「ルソー」の実現は「ハート」まで待たなければならなかったのであった。

「人権」が技術的に十分可能となったのは、戦後である。
戦前を眺める時には、(戦前ではなく)「戦後」と焦点化される機序を与えるマルクス主義の範疇である「資本主義」や「工業化」のタームに帰属する「孤独」には注意が要るのであった。この「孤独」にも、様々な意味付けが用意されているので、注意が要るのであった。マルクス主義も、キリスト教神学から受け継いだ幾何的世界観の一類型に過ぎないため、他の幾何学的世界観の語彙とどの程度家族的類似を見いだせるかに注意が要るためである。就中、心理主義との親和性には懐疑的だが、オカルトブームと親和的なのは、言うまでもない。
ただし、日本のオカルトブームは、極めて日本的で、仏教を中心に展開されたので、政治的にはマルクス主義者と対立しうる、、、

これが非常に厄介なのである。
というのは、この「仏教」は、西洋化(ギリシャ、、、、・ローマ化)された仏教だからである。このとき、西洋自身の「近代化」が「本当に脱キリスト教(社会)だったのか」という問題を胚胎しており、実は、その端緒ともみなせるルネサンスが、

 

しかし、それは意外に単純なクイズかもしれなくて、要は、「ドイツ世界主義」を「世界史」と見做す悪弊を糺せばよいだけなのかもしれない。
そこにマルクス主義も入ってくる。
彼が紛うことなきドイツ人だったからである。彼を見間違うことがあるとすれば、彼がおそらく発達障碍者かほかの何かしらの人格障碍を抱えていたからに過ぎない。
それはヒトラーに対する視線と同じで、ヒトラーは悪魔に「なった」のであるが、もともとは、今ならそうと考えられる、何かしらの障碍を抱えていただろうと思う。彼は現在なら、もちろん犯罪者になった可能性を排除できないが、おそらくDVなどの傷害事件を起こす程度だっただろうと思う。もちろん、被害者にとっては、許しがたい犯罪であることに疑いがないが。
「人権」を疑いようのない技術で制度化する意義がここにある。
それは戦後の技術なのであった。


「中・高・大の連帯」( 京極,昌三,大学英語教育学会,1988-09-23,JACET全国大会要綱. 27)が国立国会デジタルコレクションにある。

JETプログラムは

The Japan Exchange and Teaching Programme

 

こういうものであって、『JETプログラム 5年とその将来展望 』(自治体国際化協会,1992)という本が総務省自体大学校の図書室にあるらしい。278頁。

総務省自治大学校図書室 〒190-8581 東京都立川市緑町10-1

つまり、

実は、文科省(文部省)だけ見ていても、英語教育の全体像をなかなか掴めないし、終戦を挟むときには、戦前とのつながりをどう考えるかが出てくるかもしれない。

公民館創設の功労者であり、社会教育法制定に中心的役割を果たした、戦後社会教育の創始者である。

寺中作雄-Wikipedia

このひと、戦前は、ガチガチの統制派で、国家総動員体制を先頭に立って指導していた人じゃなかったかな?英語教育とは別の話だけれど、多文脈の一例になるかどうか。

英語が「実質必須科目」となったのは、受験が関係している(のではないか)、との非実証的な事実があったときに(P4,英語教育目的論における「必須化」の起源,『「なんで英語やるの?」の戦後史』)、後年になるが、JETプログラムが、そもそも中高大を串刺しにする意図を持っていたということがある(かもしれない)、というね。

第1期は公立小学校での英語教育に何ら公的なバックアップがなく、非公式な英語教育が散発的に行われていた時代である。戦前・前後から1980年代頃までである。

小学校英語のジレンマ

その後の「総合学習の一環として英語活動」を「非公式」と呼ばずに「必須化でない」という扱いをしているのと比べると、不思議な感じがする。或いは、「総合学習の時間」の前に在った「レクリエーションの時間」が念頭にない。
これは私が実際に、80年代にこの授業を受けたからであるが(たぶん、初年度か次年度だったと思う。)、実際に、それまでの取り組み(大学卒業生の招致)を聞いたうえで、方式が変わったがゆえの不自由さを教師はこぼしていたような気がするんだけれど、どうだったかな?「JETプログラム」になることで報告も必要になって、面倒くさくなったんじゃなかったかな?
実際に困ったのが、授業割の表記で、教室の後方に備え付けられている黒板に1日の授業割を当番が白墨で書くのだが、3限目と4限目だったか、書きようがなくて困ったということがあった。「英語」と書きたいが、カリキュラムの制限から「英語」とは書けないが、「英語」なのである。じゃあ「英語」でいいじゃないかと、クラスメイトからクレームがついたのである(が、本当は「英語」の授業ではなく、外国の文化の紹介である。それだとイマイチ盛り上がりに欠けるのだが、クレームを付けたのは児童の親ではない)。結局、担任の指導に従って「特別授業」と書いたと思うが、担任も困惑していたと思う。昔のことなので、さらに昔を知っていたからだ。すなわち、これだと、戦前の師範学校の「特別授業」(唱歌)を思いだしてしまうからだったと思う※。
非実証的な事実だ。
※例えば、宮城県師範学校附属小学校規則及細則草案 P66に

第二章 特別授業

第259條 特別授業ハ特ニ敎生ヲ指導シテ實地ノ方法ニ熟練セシムルヲ以テ目的トス
第260條 特別授業ハ豫メ敎生ヲ指定シテ之ニ當ラシメ主事訓導敎生之ニ参列スルモノトス

要は、この「敎生」とは、今でいう、教育実習生なのか、師範学校の生徒が付属小学校に於いて実地を以て教えるときに、教生の中から二名の批評者を当番でまわすらしい。唱歌に限らないのか、図画、唱歌、裁縫、英語がカリキュラムに新しくくわえられているので、それらだったろうか、そうとも限らなかったか。
「模範授業」「練習授業」「特別授業」「児童訓練」「事務練習」「参観」「研究会」「課題」が「教生」の扱いらしい(長野県師範学校付属小学校事業系統,全国附属小学校の新研究,明43.5)が何しろ古い。
ちなみに、「第五條 高等小学校ノ教科目ニ男兒ノ爲メニ随意科トシテ英語ヲ加フ」(宮城県師範学校附属小学校規則及細則草案)と書いてある。

余談が許されるならば、当初は、外国の大学卒業生を「教生」扱いにして「特別授業」として行っていた微妙なニュアンスを持つものが「JETプログラム」に引き継がれて、「レクリエーション教育」などの経緯と合流して、「総合的な学習の時間」での英語活動に繋がったのではないかと思う。当初の英語活動は、自分が見た限りでは、身体を動かす歌と遊び(などレクリエーション)がメインコンテンツだったと思う。

そういった、「外国人講師」ありきの独立した(すなわち、教師や学校に馴染まない)文脈があったということである(最初のアンケートの話に戻る)。

 

いつから、自治省、外務省で、組織化、予算化されたか見ようと思ったけれど、なかなかそれはわからない。
cf.LEC東京リーガルマインド大学

株式会社の設立・解散には所轄庁の認可が不要。

資料3‐4 株式会社等による学校経営への参入について(検討メモ)

文部省(馳浩)と共産党に潰されたんか。

この先生、今、関西学院大学で教えているのか。北陸英和学校、金沢英学院の歴史を思い出す。