「加賀百万石」は加越能三国支配の百万石

 

なるほど。

一向一揆ねぇ。

輪島を初めとして能登をみるときに、なかなかわからないだろうこととは、「能登はもともと発展していた」(だから、「輪島町」じゃなく、「輪島市」)ということで、一向一揆は、もともとのへき地で進展したからね。

この「もともとのへき地」がわかりにくいと思う(へき地だからこその、戦術的難所で、だからまた、民衆の協力を得て支配するしか方法の無い、戦略戦か(和睦を理由に呼び出して襲うことが多い。)、或いは、島原の乱の制圧に先んじる、殲滅戦となる。上杉謙信だって、攻め落としたわけじゃない。当時の七尾がへき地だったとは思わないが、七尾城は一方で朝鮮の山城—というか山脈城、一方で北条氏の小田原城と比較されなけれならない。個人的には、先例に出来る利益があって、上杉謙信より、加藤清正を推したい)。

へき地じゃないところは、実は、堺のような特別な自治が発達するか、早々に、戦国大名化するんだよね。「しなかった」ということが、加越能(+越前)三国(四国)比較で、わかるんだよ。

福井(越前)が琵琶湖(=近畿)に近いということもあったし、(日本海の航路を繋ぐ)九頭竜川から、他の地域に抜きんでて発達した。やっぱり、一向勢力も早期に(権門体制下で)地歩を固めたのもここだし、そこから、越中、加賀と金沢に流れた”だけ”であって。本当は、加越能と言うよりも、越前、能登越中の三国だった。

一向一揆は、そのへき地から、撰銭制の反対を行く銭金融で「地場産業」(と女性)を中心にのし上がったのが、本当の姿に近いと思う。
あくまで、「反射的」で、「スキゾ的(体制の隙間的)」なのが※、特徴だろうと思う。

※ただし、この頃は、近代的物権社会と異なり、むしろ債権的多重支配構造とでも言える様相だったから(要は、ダブルブッキングはそもそも排除されない。あくまで当事者間の契約で有効で、ただし、当時は公訴能力が弱いから、力関係で決まる。)、一向門徒は( 武士とは違う格好で 、、、、、、、、、 )もともと 権門体制の「番犬※」代わりだったのであって、入り込む隙間は多分にあった。

※酷くキツイ言葉なのだけれど、当時のニュアンスとして、果たして?と思った。「武士はどこからやって来たのか」との問題が歴史学上あるが、それに近いようにも感じられ、「警護」「警備」で済む話だったのか?

 

一向一揆を語るうえで、絶対に外せない一冊(ただし、一向一揆は、言及されない。非常にもったいない。だから、わからない人には、絶対に、わからないけれど、これ以上に、一向一揆の背景を明確に説明することは、不可能だろうと思う)。
一向一揆を考える上では、歴史的な名著(でも、それがなかなか伝わらなのが、一向一揆である)。

一方、城山さんの『黄金の日々』は何がイイかというと、堺を採り上げているのが、やっぱりイイ。そこから考えないと、また、わかりにくい。堺などごく少数の大湊があって、それよりも規模が小さい能登とかがあるから。(能登よりも)新潟の方が大きかったみたい?だけれど。

そこから、前田家の支配を得て、「海の200万石」になるわけです。
このダイナミズムね。