ハイデガーは「反ユダヤ主義」だったのか ― 池田信夫blog https://t.co/DXOlGLxDnd pic.twitter.com/jpuTMmH7av
— 池田信夫 (@ikedanob) February 20, 2024
(以上、『物語ドイツの歴史 ドイツ的とは何か』)
ここで注目しなければならないのは、「ラント」が神聖ローマ帝国以前の部族主義でありながら、諸侯に依る権限が或る意味で王並みに強化されており、その中に、ユダヤ人支配が含まれていることだ。一方で、ドイツ人のキリスト教徒商人層も広がりを持ちつつ、都市(国家)を形成した。このとき、ドイツ的なものが完成を見、「ドイツ人の」ローマ帝国となったようだ。
ここに脱ローマ・ギリシャ が重なるとどうなるか。
10、11世紀が、
「地中海の世紀」だったことを忘れてはならない。ユダヤ人もイスラム教徒になった(ユダヤ人とは、単純に、「ユダヤ教徒」のことではない)。「ユダヤ人が金融業を営む」とは、セファルディムのことなのか、アシュケナジーのことなのか。11世紀まではユダヤ人社会の中でもセファルディムがアシュケナジムの上位に、ヨーロッパの非ユダヤ人から、位置づけられた時代である(リヴォルノのユダヤ人)。
内陸と川(陸のバイキング)の時代に入り、ユダヤ人とともに迫害されたロマの人は、「ジプシー」と呼ばれた。「ジプシー」とはエジプト人と勘違いしてそう呼んだのであった。単にユダヤ人が迫害されたのではなかった。
という意識が、ドイツにおいて、数百年を経て歴史的に形成されてきたようだ。
(以上、『キケロ ヨーロッパの知的伝統』)
1749年は、ホッブスが『リバイアサン』を発刊した1651年から約100年後である。
(デカルトの『方法序説』は1637年。)
スペイン・ポルトガルとイスラーム - Wikipedia
レコンキスタ - Wikipedia
ビザンティン・ハーモニー - Wikipedia
ここにおいて東ローマ帝国滅亡から間もない時代にはオスマン帝国の君主がルーム(ローマ帝国)のカイセル(皇帝)と自称するケースがあったことなどの史実が掘り起こされたり、帝国がコンスタンティノープル総主教の任命権を通じて東方正教徒を支配したことが東ローマの皇帝教皇主義の延長とみなされる議論がなされ、オスマン帝国は東ローマ帝国の継続であるとする、ネオ・ビザンチン説もあらわれた。(カエサルを自称した皇帝はスレイマンなどほんの一握りだった)
こうなると、中国の歴史における、(春秋時代の)「覇者」に近い印象を受ける。
多様な「(部族)国家」を徳と力で統べる。
イングランド国教会 - Wikipedia
護国卿 - Wikipedia
神と共和国の恩寵によるイングランドコモンウェルス、スコットランドおよびアイルランドその他、自治領および領域の財産の護国卿
また、「ニーチェはそれに飽き足らず、一種の直観主義に就いた。」(P.184,『キケロ』)
19世紀には、認知の革命が起こり、アリストテレス越えが始まった。
その中に「直観(直感)」も重要な語彙だった(ポアンカレ、ブラウワー、ハイディング)。ニーチェが何を意図したかは知らないが。
ハイデガーは「反ユダヤ主義」だっただろう。ドイツの歴史において、それはコンプレックス(複雑)に構成されてきた感情だからである。
これはマルクスにも引き継がれる。