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大雑把に言えば、こんなイメージである。
要は、(カントを含めて)カント以降、(分析に関して方法論的転回をしなかった)哲学は、すべて「オカルト」である。カントはその前段を準備したという意味で、近代はカントから始まるとイメージされる(デカルトを完全に過去に追いやったことで。再ブームも終わり※、すでに忘れられていたのであるが、「過去の人」としてカントはあらためて呼び出し、そうすることで「近代」を宣言したと謂える。ちなみに、次に、裏から呼び出すのは、ヘーゲルや、アメリカのプラグマティストである。ヘーゲルはややこしいことを言っているが、要は、ソクラテス的で—だから、デカルト的で—、カント以降にあって、整理し直したと考えると単純である。要は、デカルト的実在論の復活である。デカルトをギリシャ的「矛盾」と考えるとわかりにくいが、ソクラテスの「科学」であった「媒介」から考えると、それであえて存在を述べたヘーゲルは、デカルト的であるのに過ぎない。なぜこれが分かりにくいかと言うと、デカルトへの論じ方が、「方法序説」に偏っているためであり、ストア派から入ってしまうからだ。デカルトはソクラテスを十分意識していた。「方法序説」はそれだけで取り出して単独で読まれるものではなく、トリセツとして前置きされたのであって、それ自体がそれほど重要な文献ではない。デカルトには文芸研究者の側面もあり—当時一世を風靡したゲス・ド・バルザックの強い影響を受けたらしい—、キャッチーである。ゲーデルも「誤解された」と言われるが、デカルトは、その先達である)。
※デカルトほど何回も「過去の人」になった例があるだろうか?
「デカルト頌」(デカルトを称賛する論文公募)は1765年である。
1765年、「1765-66年冬学期講義計画公告」のなかではじめて理性批判のアイデアが公にされる。また同年より始まったランベルトとの書簡の中では、自然哲学と実践哲学の形而上学的原理の構想が開陳され、自らの「あらゆる努力は、主として形而上学の本来的方法を、この方法を通じてまた全哲学の方法を目標としている」と述べられている[4]。
「大きな光」を与えられ、「それは一般的に空間と時間の観念性の発見である(と考えられている)」とドイツ人らしく大袈裟に言っているが、デカルトの(光学的方法と明証的方法の)ことである。カントの「発見」は、デカルトが実在論に留まり主体を論じたのに対し、「主体」から「主語」を分離して、方法的に、形而上学と形而下学を分離したことである。数学は「主語」に係らない代わりに、「時間」(と「空間」)に係る(だから、形而上的である—完全演繹体系を証明するカント・プログラム)。これがブラウワーに影響を与えた。この「時間」は展開を与える構造のことらしい。
ハイデガーが「トリッキー」なのは、存在的/存在論的を述べたからだが、もう認知上の革命が終わった後の彼なりの説明であったと考えるのが妥当であると思う。
ただ、現象学は認知心理学に残っているので、その系譜上の意義はある。
要は、欧米社会にとって、ソクラテスか、プラトンか、アリストテレスかが、決定的に重要なのであって(ただし、近代からの懐古であって、同時代あっては、ローマ的であることがそれを凌駕していたらしい。)、アリストテレス主義が19世紀まで続いたことが、ただ注目されなければならない哲学的事実である。
ほかの哲学者は、「どのように続けたか」で、マッピングされる。
デカルトはその意味で正統であるが、カントは若干特殊である。それを軌道修正したのがヘーゲルで、ハイデガーはその途に沿っている。
デカルトが評価されにくい理由のひとつに、超越数を「認めなかった」(と考えられている)ことが挙げられるかもしれない。
それはデカルトの数学観が、さしづめアルゴリズム的で、「できる数学」/「わかる数学」に分けるとすれば、「できる数学」で「よし」としたためである。
たまたま「鶴亀算」をしていて、これが、内分点を求める計算であることから、ラグランジュの未定乗数法と同じことだと気づいて、デカルトが考えていたのはこういうことではないかと感じた。
こうやって理解してゆくと、浄土教の功過自知録が複式簿記の原型ではないかと思えてくる。それは中世乃至近世の法体系に依存していたはずである。
十分ではないが、「心の計算」がイタリアでも複式簿記の原型である。