「論理的」であることと認知の発達

進化論の理解が間違っていたり、不十分であったら、申し訳ありません。


思い出した。
 ①『キリンは首を長くした』

 ➁『キリンの首は長くなった』

のどちらが問題として正しいかを考えるときに、出題意図と出題形式が問題となる。
 出題形式は、出題内容を適切に伝える形式のことで、言語作用のことであるから、統語上の意味量の伝達であると考えると、①の文は潜在伝達量が多くて、混乱しやすいことが予想されるために、その混乱をさけるために➁の文が推奨されるということである。

 ①の文は、2つの仮説を準備して一方を排除させたうえで、理論の正しい理解を問うのであるが、➁の文は単に理論の正しい理解を問うているのである。

【第1仮説】キリンは高い木の葉を食べるため首を伸ばすが、それを数代続けた結果、首がながくなった

【第2仮説】そもそもキリンには生存のための様々な変化の種の元(方向)を多様に持っていて、首が長くなる変化の種の元(方向)もその中に含まれたが、結果としてその種の元(方向)を発現させたキリンが生き延びて、交配を続けて支配的な種の元(方向)の発現となり、やがてキリン種として繁殖した

 それでは①では、第2仮説を出題できていないのだろうか?
そうではなく、「能動的」にしろ「自律的」にしろ、ヒトの行為に関する言葉で意思と関わりをもつが、それを一旦棚に上げて、「能動的」を主体の働きかけが或る評価を与えること、「自律的」を主体の有する支配機序に従って自ずと(自然に)定まることとして、第1仮説を「能動的」第2仮説を「自律的」と区別して(第2仮説では、それぞれの種の元を発言した主体がそれぞれに「能動的」であっても帰結に影響しないことから、第1仮説と区別して)説明するときに、その区別されることを(つまり、第1仮説も第2仮説も両方)出題範囲に含める意図を持った簡潔な表現である。
 ①の出題では、出題語彙で分岐する、想起される多様な状況の選択を敢えて排除せず、回答者に、(対立的な)第1仮説と第2仮説の両方を立案させたうえで、合理的な順序に従って論述を進められるかと知識の正確さを求めて健全な回答を述べさせる形式となっており、➁の出題では、そこまでは求められていない。

 ①のような出題形式は、例えば、司法試験(刑法)の論述問題にみられることであって、「論理的」とはまさに言葉の問題であることに沿うて、幾分難易度が高いようである。
 回答者が幼年者(7歳程度)であることを考えると、認知能力の発達段階にあって言語の獲得も不十分で、適当であると思われない。

※ここに出題形式の限界が隠されていて、必ずしも「ブレインストーミング」的なアイデアの表出が企図されているわけではないことから、結局は「短答式」出題の延長に過ぎないとの批判が在り得る(模範回答例を覚えることが本来の出題目的を叶えるか)。


👆は昨日の『積分定数』氏の疑問を述べたツイートへの回答だが、昨日回答した時点では言葉が足りなかったので、丁寧に説明してみた。

 こうやって考えてみると、学校の勉強は元来「文系」的にできていたようだ。

 いまでこそ「はじき」も一般に違和感なく受け入れられているが、かつては蔑まれていたのであるし、それが普及するにつれ反対に、それの受容の風潮に納得できない人の嘆き(「おかしいと感じる自分がおかしいのでしょうか」)が聴かれたものである。
 確かにそれはただの操作であって概念を欠くから物足りなく感じるであろうし、さらに理解が進んだあとの中学生の電気回路の学習の段になると(高校での学習などさらに先を見据えての)むしろその「特殊な場合」であることの理解の方が大事になったりするので一概には言えないが、その限りでは十分通用するのでありまた、発達段階においては、操作に習熟することが大事であるのは、それ自体の意味もあるし、「操作の習熟」と同時に「概念の理解」を考えても概念構成自体が操作的であってそれを見据えてのことであるので、特に気にすることはないのである。発達段階に応じて、徐々に理解を進めることの方が、むしろ重要であると思う。

 そして、「文系」的であることとは、言葉の使用と密接な関係があるようである。法学もその一部に過ぎない。 

 

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