天才車田正美

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なるほどねぇ。そういう考え方もできるか。

孤高のグルメって漫画だったんでしょ?
作家の構成力のすばらしさを褒めたい。
例えば大ヒットした『のだめカンタービレ』と

みたいな話なんじゃないの?

漫画の凄いところは、車田正美であって、『ギャラクティカ・ファントム』は「ギャラクティカ・ファントム」と叫べばギャラクティカ・ファントムであって、それ以上ではない。これで車田は何本漫画をヒットさせたか。
これが特筆すべきなのは、誰にでもできることでは決してないことだ。

ボクシングなら『あしたのジョー』もあるが、いかにリアルに技術を伝えるか、いかにリアルに少年院の内部を伝えるかがヒットの条件だった。それをひっくり返した。
巨人の星』のような荒唐無稽な漫画ですら、ファンタジーに過ぎないのに、科学的に詳細を明らかにすることが演出上求められた☟のを、ひっくり返した。
それはもう作家の能力に依存する。

なぜわざわざわ言うかというと、星新一の『声の網』が「21世紀を予見した」と「喝破」したときに見失わせる、星の物語作家としての矜持といっしょだからです。

あれは当時のNTTの技術を見て考えた、落語ですよ。インターネットはまったく関係ない。落語なら可能です。落語ですから。それをわからせないのが、星の作家性であって。

 

車田正美さんを取り上げるべき理由は、いじめの問題と関係するから。
僕らの子どものころに、少年サンデーで、漫画家さんに(確か)「まんが道」を聞くという企画があったんじゃないかと思う。
第1回目の漫画家さんは、高橋留美子さんで、当時ですでに、漫画家に尊敬される漫画家で、ほかの漫画家さんの誰もが、高橋さんの前に企画を受けるわけにはいかないって固辞するって事態が起きたみたい。

漫画家に話を聞くって企画が当時よくあったのかな。
車田正美さんの回もあって、それが非常に興味深かった。

彼の読者はもちろん少年たちで、熱狂的な支持を受けたのだけれど、真似しちゃうんだね。
なにしろ、仮面ライダーの世代で、仮面ライダーの真似してライダーキックで事故を起こすのが多発した世代だから。
それで、いじめの原因になるって、PTAからキャンペーン貼られて対応が大変だったみたい。
フツウは、技を真似するから、テクニックの蘊蓄が在る方が、真似するにも面白い。それこそ誰にでも(まだ)できない優越性があるから。
だけれど、ギャラクティカ・ファントムだと蘊蓄ないから、叫んで、思いっきりぶん殴るんです。なにしろギャラクティカ・ファントムは「もっとも威力の大きいパンチ」だから、テクニックじゃなくパワーを競うというね。それで小学校で禁止にされたんです(当たり前だけれどね)。

そのとき、車田さんがどうしたかというと、もちろん、誌上で直接啓発に努めるのと並行して、ストーリーをより重視して、裏メッセージにそれがいかに格好悪いことかを載せてゆく努力を始めたらしい。
それが彼のテーマワークになったって本人が言っていたと思うけれど、どうだったかな。

僕なんかからすると、「グルメ漫画」って、店舗というオクタゴンに入って、料理という必殺技を繰り出す漫画だから。
僕らの小さかった頃の漫画は、まず「科学」への信奉があって、それが一方でより説得的な説明言辞の多さを競う「蘊蓄」と、一方でより人間離れした効果を競う「驚異」を生み出す表現を競った印象だな。単純に演出として。それをスポーツ根性物、或いは、学園騒動物というテーマで、ジュブナイル※なドラマツルギーに載せた。それへブルースリーの影響を受けた「決闘(格闘技)システム」を導入していったような気がする。ブルースリーはすごくアメリカン。

※当時の少年漫画雑誌は、小学校高学年(12歳程度;5乃至6年生)以上を対象にしていたと思う。

だから、そういう作家の漫画を見て育った世代が、今、孤高のグルメを見るとしたら、個人的には腑に落ちるものがある。
それが僕にとっての「ジェンダー」かな。

 

あと、あだち充さんの、風景コマの理由もあるけれどね。
彼実は、梶原一騎の後継者を自認する「劇画作家」なんだね、意外でしょ。
だから、『タッチ』って、あんな漫画なの。今読んだら、びっくりするよね。
だから、彼も物語をすごくだいじにするんだけれど、その彼が「物語らないコマ」を作り出すんだね。
そういうのもあるなぁ。
これも本人談だけれど。
少年漫画雑誌って、すごく売れてたんだね。


嵐が丘 - Wikipedia

「能力」を競い合う以前に、「どろどろした葛藤」が在る方が面白いっていう感じかなぁ。そうすると、『嵐が丘』のような古典にだってそれを見出せる。それがジェンダーと無関係とも言い切れないが、商業誌なら演出に過ぎないんだよね。『昼顔』を女性のジェンダーから説明するかどうかかな。

単純に競い合うのはなんであれ、面白い。
それが戦後の「科学信奉」で覆われたんじゃないかな。そもそも近代の特徴は可測性にあって、その根底乃至延長に「科学信奉」があるから。演出上それがよりシステム化されたのだろうけれど、それはむしろ、アメリカの影響じゃないかしら。

☞所謂『消える魔球』は、星飛雄馬の父親の星一徹が現役選手時代(確か、2軍選手だったと思うけれど、ジャイアンツのショート)に内野ゴロを捕球してファーストへ送球する際に、日夜血のにじむような秘密の特訓をして可能にした奇跡的に切れの良いスライダーを「魔送球」として走塁手に向けたビーンボールで投げて走塁を足止めする(邪魔する)ことを多用したら球界を追放されたエピソードがあって※、星飛雄馬は小さいころからの特訓でそれをすでに会得していたのを改良して、縦の、奇跡的によく曲がるスライダーというか、スプーン上に沈んで浮き上がる魔球を砂ぼこりで錯覚させる忍術を組み合わせた、手塚治虫もできなかった、漫画演出の金字塔なんだな。

※このほかに「魔走塁」もある。進塁阻止する野手を単純にスパイクで切りつけるという反則行為だけれど、グラブを狙うのがうますぎて適正なジャッジができない。
すなわち、『魔球』『魔送球』『魔走塁』の『魔』は「悪魔的な不思議さと怖さ(特に残虐さ)」から来ている。それが『大リーグボール』に昇華させるのが「科学信奉」のいち表現で、『巨人の星』の最初の登場人物が実はV9時代の川上哲治(監督)で、彼は、大リーグのドジャースで成功した最新の野球理論を導入した「先進的な野球」の実践者だったのだ。『大リーグボール』はその川上を超える意味を含意していたのであった。単に「科学的」「合理的」であることを超える(それらに加えた)「努力(血と汗)」と「奇跡」が星一徹の「答え」だったのだが、星一徹はさらにそれに「卑怯」を加えていたところそれでは川上を超えられないという問題を定礎して、愛弟子で在り愛息でありライバルである星飛雄馬にはそれをも超えさせるという、壮大なストーリーだったのだ。星飛雄馬星一徹のように(「魔球」という)「卑怯」に堕してしまいそうになると、星一徹がそれに立ちはだかる理由がそこに在ったというわけ(「魔球」は文脈の正義上、「打たれるべき球」=「克服されなければならない業」でもあったのだ※)。
※アニメの主題歌で、星飛雄馬花形満と左門豊作が抱き合うシーンが有名だけれど、実は実は、あのシーンのカットバックで星一徹が居て、同じように涙を流している。それがむしろメインテーマで、3人の友情は出汁に過ぎない、実はちょっと大人の漫画。それでおっさんになった今、興奮している。子どものころはそんなでもなかった。

だから、その『魔』は、堕天使の『魔』の両義性を持ち、「日本球界」というエデンを追放された人間が『大リーグ』という天国へ向かう道程でもあった。

なんだろうね、梶原一騎のこのすごさ。
梶原一騎阿久悠はまちがいなく、敗戦後の日本の何かを背負ったな。

 

だから、『能力』に着目するのは慧眼だけれど、それは実は、近代に目覚めた戦前から連綿と続く少年漫画大河の一コマに着目したのではないか、という感想を持ちました。