西村 賢太が尊敬してやまない藤澤 清造

23歳で初めて藤澤清造の作品と出会った時は「ピンと来なかった」

西村賢太 - Wikipedia

実は、藤沢は、

根津権現裏 - 国立国会図書館デジタルコレクション

で読めて、ざっと目を通すと「因業」という言葉しか出てこない。

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死の谷』のほかにも『聖書』という言葉が出て来る。

ロバート・A・ハインライン『たとえ我死の谷を歩むとも』のタイトルの由来は本章である。

詩篇23篇 - Wikipedia

また

大岡昇平の小説である『野火』の冒頭で、本章の一節が引用されている。

詩篇23篇 - Wikipedia

だが、『根津権現裏』と『野火』を読み比べた印象は大分異なる。

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さて、一方で、

『[カルテ4]小川和夫さん』の独白(P89)では、それと異なる「事実」が風に乗る。
これは肉の質の問題か、或いは、主観(的事実)の問題であるか、ということである。

ちなみに、👇では、先に任官した先輩であり兵営※で起床を共にする後輩として甲斐甲斐しくお世話を務めた、また歴戦の戦友である『(忘れた)号』も、大して旨くなかった話が出て来る。人が痩せているときは馬も痩せていたのである。
こういうときのカレーはメニューとして定番である。
※兵舎ではない。人馬一体と言えども、さすがに分かれていた。愛が高じて起床を共にせむ(ん)と企てようものなら、寝ている間に蹴り上げられて死ぬこともあったらしい。馬にとってもパーソナルスペースを踏み超えると自己への侵害である。プライヴァシーと混同するのは勝手な話で、下手に人語を介しない馬のソリューションはシンプルであった。

 

👇では「色」こそが、主観と客観を区別する一里塚として、識者の前に立ちはだかったことが紹介される。フレーゲは「色」をどう理解したか。

ここでは「味」が同じ機能を果たしている。

 

エゴティスムといえども,`それが誠実なものである限り’,人間の心を描き出すひとつの方法である〉(スタンダール《エゴティスムの回想》

1655年に出版した『物体論 De Corpore』内で円積問題の解を見つけたと公表し、数学者のジョン・ウォリスとの論争に発展した。ホッブズの哲学は公理系を元に構築する幾何学的な考え方を元にしていたが、円積問題については終始、本質を理解することができず、誤りを自覚できずに死ぬまで激しい論争を続けた

トマス・ホッブズ - Wikipedia

 

著作の Opera Mathematica I (1695) では "continued fraction"(連分数)という用語を生み出している

ジョン・ウォリス - Wikipedia

これの何が凄いかというと、一部ユークリッド幾何学の否定である※。つまり、ギリシャピュタゴラス学派がせっかく発見した√2を隠し続けた理由でもあるが、いわば「無限分数」を意味して、自然数による「比」が成立しなくなるのだ。
この幾何学観はニュートンも当然に踏襲していて、古典物理学の金字塔を打ち立て、と近代の黎明を告げた、或いはニュートンを新しい神に押し上げた、かの『プリンキピア』は、当時の学会の常識に沿ってこの幾何学観で書かれ、微積分がまだ利用されていなかった。

※それにしてもガウスは異常なほどの天才である。天才というにも程がある。

制限を緩めて、コンパスや定規を仮想的に無限回使うことを認めたり、ある種の非ユークリッド空間で作図することを認めたりした場合には、円積問題の作図は可能になる。例えば、ユークリッド空間では正方形化は不可能な一方、ガウス・ボヤイ・ロバチェフスキーが提唱した双曲幾何学の空間では正方形化が可能となる。

円積問題 - Wikipedia

一方で

今では当たり前となっている負数が 0 より小さいという考え方をウォリスは不合理だとして拒絶し、スイス人数学者レオンハルト・オイラーと同様に負数は無限大より大きいという見方を支持した。負数が無限大より大きいという考え方は、x を正の大きな数から 0 に近づけていくと 1 / x の値が無限大になることを根拠としている。それにもかかわらず、負数を左、正数を右に描く数直線の考え方はウォリスが考案したとされている。

ジョン・ウォリス - Wikipedia

その異才ウォリスと言えども形式的な比にはこだわった。
これは0とも関係もあることだが、興味深いのは、人文学の雄オイラーもこれに拘ったことだ。オイラーエーテルに拘って(「エーテル」はマジックワードで、まさに、〈判断〉を巡って、かそれぞれがそれぞれの「エーテル観」を持った。アインシュタインにはアインシュタインの「エーテル観」があった。)ニュートンと論争を起こしたこともあるようで、彼の人文学的才能は、数字を言葉に置き換えられる特殊な才能に依存して華々しい成果を残したが、たぶんに直観的でもあった。
0を理解できるようになるには、無限を巡って集合論が定礎された際の、現代的な自然数論の成立まで待たなければならなかった(それまで、0や小数を使えなかったわけではない。)。それくらい、(広い意味での)「言葉」と『構造』の関係は厄介な問題だった。十分に解明されるまでは、おのおのがそれぞれに実証する正しさを直観に頼らざるを得なかったのだ。高木の整数論がたぶんに「哲学的」であることを足立は指摘する。

ごく大雑把に言えば、或いは人文学的に言えば、0は、同位律の否定である。

こんなことを関数論の生みの親である(わかりやすく言えば、どんな関数もグラフに記述可能と喝破し、目的論を破った)オイラーに言えなかった。オイラーの数学では確かに、0を巡って(原点近傍で)、ジンバルロックが起こる。そこでは「ニュートンの再来」ハミルトンの数学が役に立つ。

 

話を戻すと。

仏教の話をしたいのか、キリスト教の話をしたいのか、よくわからなくなるが、藤澤の「自然主義」はそういうものであるらしい。
すなわち、「自然主義」とは運動の動機であって、そもそも何かに変換しようという企図である。その対象が古典主義だったということである。

 

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f:id:MarkovProperty:20220127165049j:plainフィック錯視における錯視量の定量化に関する研究

 

中国から教わった日本の古典絵図が、透視図法と異なるのは、対を為す(位置を「点」化して、)基準軸へ(位置を)「返す」ことを通じて対称を採ることをせずに、構成角度の異なる2対の基準対を比較することで、構成角度を与える存在の1個表象を保存したことである。後世になるにつれ、観察に従って、表象もこなれて来るが、

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👆(弘安の役において)鼻をつまむ元の兵(糞尿爆弾が硝石を活性汚泥※を煮沸ー塩と分離ーして採取する試みの副産物であることを軽視しすぎだと思う。どうも、中華思想の本願はこういうところに表れる。「白村江」にしても「元寇」にしてもどうもイデオロギーに偏っている。「八甲田山」と同じように、敵対味方対自然だと、自然が圧倒的に強大だと素直に認めないといけない)。※https://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/37_topics/data/00130-15401-10379901.pdf

 

それが「「存在」在りき」で描かれる以上、表象であることを免れない。
つまり、基準軸同士の変換となっているのだ。

藤澤の話もその類だとすると、日本はもとより、中原・中華思想より抽象化と仏教より実証化を学んでいたので、キリスト教・近代思想より客観化を学べばよかったが、どうも、全景を構成せずに、前景/後景で理解する文化的な癖があって、あれでもない、これでもない、と強弱に落とし込んで納得してしまうようだ。
そのとき、表象のニュアンスへの共感で、現実感を出す。
鼻をつまむと確かに「リアル」だ。だが、そんな話だったのだろうか?

 

風吹千畝迎雨嘯,鳥重一枝入酒尊。 (「昌谷北園新筍四首・四」李賀)
唐詩の 中で見ても個性的な表現だと言える

視覚の操作 ―「新古今集」と唐詩との比較を通して― 趙 青

北宋の時代にもユーミンがいたか(『海を見ていた午後』)、と思うような感性であるが、

1583 - 松岡正剛の千夜千冊

 

しかしまた禅師たちの認識では,「仏理不可言説」を言説すること,「禅不可言伝」を言伝することは必要であり,しかもその言説、言伝は世俗の文字、言語の常套に落ちない表述、伝達でなければならなかった。そこで不立文字の走向が極まると立文字への転向となった。

文字禅、看話禅、默照禅、念仏禅 | 老酒保's space

要は、文字禅は文字をそのまま理解するとき姿勢のことであるが、看話禅は文字を再帰的に理解しようという話で、そうすることで禅のもともとの理想である直観主義「不立文字」(文字を介して理解することは観念であるとして斥けられる。)を達成しようというわけである。なかなか面倒なことを思いつくと思うが、これは漢字がコピュラを用いない概念語であることと関係あると思う。

例えば、これである。

『牛過窓櫺ぎゅうかそうれい』(無門関第38則)などの公案を創始した

法演 (禅僧) - Wikipedia

一休さんにも答えられるだろうか。
ようやくわかったのは、なるほど、影ととらえればよいではないか。ということである。ユーミンは天才的である。

ところで、文字禅ではないが『文字禍』を書いたのが中島敦で、勝又浩は、西村賢太の本に解説で、『私はしいていえば中島敦の没後弟子で』とやって怒りを買ったらしい。

「我を求めて―中島敦による私小説論の試み」で、1974年に群像新人文学賞評論部門を受賞する。

勝又浩 - Wikipedia

要は、西村賢太私小説作家で藤澤 清造を大変尊敬しているところから、「僕が僕が」とやったのもあるし、藤澤 清造と中島敦の作風の違いもあるし、『弟子』としての姿勢の違いもある。それをエリートたる藤澤が軽薄にもやったものだから、ふざけるなと言いたくもなったのだろうか。

私には中島が到底私小説作家と思えないが、エピソードから類推すると当てはまる偶然性もあるのだろう。無理筋であるが、「自然主義」をいちイデオロギーとみられないことから来るのかもしれない。

藤澤は確かに私小説作家であるだろう。
藤澤は浄土宗であったようだが、悪人正機は前提として人間正機である。それが称名念仏を唱える。
ちなみに、浄土宗では、16小地獄の#9が「膿血」であるらしい。
冒頭に掲げた文章とラストの文章を並べる。

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