「和魂洋才」の「魂」は仏性的自由であり、「才」は神の授ける自由である ㉛

 

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ビーレフェルト大学では英語を話せる人たちが〔ドイツ語圏外から来た〕私たちのドイツ語を上達させようと定期的に会を設けてくれた。私たちはそのほとんどの時間、クリスティナ・クリューガーの指導のもと、ロベルト・ムージルの退屈な小説を読んだ。私たちは彼の著作『特性のない男』(Musil,The Man without Qualities)と確率が関わるかもしれないとは考えたこともなかった。私たちの目の前にあったものがどんなものかが明らかになるのは、ジャック・ブーヴレスの驚くべき著作から出てからである

2 jaques Boveresse,L.'homme probable. Robert Musil, le hasard, la moyenne et l'escargot de l'histoire, Combas: Éditions de l'Éclat,1993.

P314,『確率の出現』

ジャック・ブーヴレスの驚くべき著作』とは以下のことである。
Amazon.jp になく、Amazon.fr にある。

Robert Musil (1880-1942) a fait, sur le calcul des probabilités et les applications à la fois prometteuses et hasardeuses que l’on était tenté depuis longtemps d’en faire à l’étude des phénomènes moraux, sociaux et politiques, des lectures détaillées et approfondies dont on trouve des traces nombreuses et importantes dans L’Homme sans qualités. Le triomphe du mode de pensée statistique et l’avènement de ce qu’on pourrait appeler «l’homme statistique», qui tendent à rendre les individus, les idées et les événements presque complètement interchangeables et à peu près indifférents pour ce qui est du résultat global que l’on peut escompter, constituent un aspect essentiel de la difficulté qu’éprouve l’homme d’aujourd’hui à se percevoir encore comme une personne privée et de la crise que traverse l’individualisme de type traditionnel, dont Musil pense que la phase héroïque est en train de s’achever. Il n’est pas exagéré de dire que le possible et le probable constituent les deux notions centrales autour desquelles Musil a ordonné sa philosophie du devenir de l’humanité et sa conception de l’histoire. La tâche de l’écrivain et de l’artiste, tels qu’il les conçoit, est de faire surgir de nouvelles possibilités; mais ils doivent savoir en même temps que ce qui se réalise est finalement toujours le plus probable, ce qui explique l’impression que donne l’histoire de se répéter toujours de la même façon et de suivre un chemin qui ne mène à aucune destination et ne correspond à aucun progrès qui nous en rapproche de façon perceptible. Puisque l’histoire humaine n’est pas, selon Musil, celle du génie, mais celle de l’homme moyen, la question qui se pose à l’écrivain est de savoir comment il peut espérer se faire comprendre de la moyenne et transformer la fatalité apparente que représentent le retour inévitable du système qu’il s’efforce de transformer à un état moyen et le rétablissement assuré du règne de la moyenne en une chance authentique pour l’humanité.

Amazon.fr - Robert Musil : L'homme probable, le hasard, la moyenne et l'escargot de l'histoire - Bouveresse, Jacques - Livres

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を使うと、

 ロベール・ムジル(1880-1942)は、確率の計算と、それを道徳的、社会的、政治的現象の研究に応用することが長い間約束されていたが危険であったことについて詳細かつ広範囲な読解を行い、その重要な痕跡が『資質なき者』に数多く見出されることになる。統計的思考の勝利と「統計的人間」とでも呼ぶべきものの出現は、個人、思想、出来事をほとんど完全に交換可能にし、期待される全体的な結果についてはほとんど無関心にする傾向がある。このことは、今日の人間が依然として自分自身を私人として認識することの難しさと、ムージルが英雄的段階が終わりつつあると考える伝統的個人主義の危機の、本質的な側面でもある。
 可能性と蓋然性は、ムジルの人間形成の哲学と歴史の概念を規定する二つの中心概念であるといっても過言ではない。作家や芸術家の仕事は、新しい可能性を生み出すことである。しかし同時に、実現するものは常に最終的に最も可能性の高いものであることを意識しなければならない。このことが、歴史が常に同じように繰り返され、目的地につながらない道をたどり、私たちを少しずつ近づけてくれる進歩に対応しない印象を与えているのだ。ムジルによれば、人類の歴史は天才の歴史ではなく、平均的な人間の歴史であるから、作家にとっての問題は、いかにして平均的な人間に自分を理解してもらい、自分が変革しようとしているシステムが平均的な状態に戻ることが避けられず、平均的な人間の支配が確実に復活するという一見した宿命性を人類の真のチャンスに変えようと望めるかであろう。

ということである。藤澤清造(1889-1932)たちも同じ時代に生きて居たはずである。

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fr.wikipedia.org

マラルメの「賽の一振り」Ⅴ : ムッシュKの日々の便り

 

藤澤清造の『女地獄』(『新潮』43巻1号,大正14年7月,pp.193-216.に掲載)の、以降の作家人生を暗転させた悪文について考えているが

自然主義」の枠に収まるのか疑問に思えた。
それで、ドイツ表現主義を見ると、こちらの方が近いように思えてきた。

表現主義 - Wikipedia

Ulrichは尋ねた。「それでもし,われわれが今ここで,誰かを呼び止めて,『おい,兄さん,おれたちの仲間にならないかい』とか『ちょっと.待ちな,おいそぎのお方,おれたちゃ,あんたをてめえ同然に可愛がってやるぜ』とでも言ったら,どうなるだろうか。」「その人は,あっけにとられて,わたしたちの方をみるでしょう。」Agatheは答えた,「そしてそれから倍の速さで歩み去るでしょうよ。」「あるいは,頭へ来て警官を呼ぶだろう。」Ulrichは補足した,「だって眼の前にいるのは人のいい気違いか,あるいは自分をからかっているのだと思うだろうからね。」
「こんどは直ぐ『卑怯な犯人さんよ』って呼んでみたら?」Agatheは試みに提案した 。
「そしたら,そいつはわれわれが気違いだとも冗談を言ってるんだとも思わないで,世に不心得ものと呼ばれる人間,心得違いの党員だと思うかも知れないね ...。」27)

 この会話は,接続法で行われる実験の好例でもあろう。これは実現の可能なことであるが,通行人の反応を確める為には,単なる観念頭の中だけの実験で充分であるに過ぎないものである。ここで用いられる接続法はPotentialis可能法で,この作品に多いタイプだとSchõneは述べて いる28)。

P67,MUSIL考 -文体としての接続法,棚 橋 一 雄,1962 年,ドイツ文學 29 巻 p. 62-71

http://www.hum.nagoya-cu.ac.jp/~bessho/CAL/Grammar/16-Konjunktiv.htm

近づいて居る気がしないでもないが、どうも違う。

シンコペーションというか、接続詞の、「それで」が「で」、「しかし」が「が」、「すると」が「と」なのだが、「だが」は「だが」、「だから」は「だから」と必ずしも省略されるわけではない。

アリストテレスはその著書『弁論術』(Rhetoric)の中で、接続詞省略は書かれた散文の中でより話される弁論の中でより効果的だと書いている。

接続詞省略 - Wikipedia

近現代の作家たちも接続詞畳用を使っている。

接続詞畳用 - Wikipedia

いずれでもない。

会話で進むのだが、省筆(稗史七則)のように会話文で説明していたり、地の文が変なリズムで、著者が見え隠れする中、漫才のようなやり取りをしていたりとなると、妙な気持になる。

何か実験的なことをしたかったのであろうが、その意図がどこらへんだったのか。
藤澤清造の「接続法(シンコペーション)」は、ロベルト・ムージルの実験精神に倣って可能性を追求したものだろうか。それともそれこそただの偶然の、ただの思い付きだろうか。

シンコペーションは、本来は音節の脱落を意味するギリシゃ語の文法用語でしたが、のちに音楽理論に転用されるようになりました。

シンコペーションとは?曲の具体例を使って分かりやすくご紹介! | FLIPPER'S

西欧が科学的可能性(確率論)に拓かれてゆく中、藤澤清造の失敗は、意外に着目すべきで、日本のそれからは、大正生命主義が、日本主義へ転化してゆくのだ。超ロマン主義というか、オカルトの流行もまた西欧なものだったが、元良勇次郎の企図が暗礁に乗り上げてから、日本は独自に「現代」へ拓かれる途を失ってしまった。

軍部は確かに兵の教育に禅を使ったが、文学史のこの流れは、決して「権力」の意向も、軍部も、少なくとも直接は、関係がないことは、もっと理解されてよい。
仏教はこの時代ただ仏教だったわけではない。この時代のいまだ未熟な西欧科学を否定する強力な「実証学」として広く根付いていたようだ。
西欧が「二元論」に立った、というより、歴史的には、「一元論」の機械的な分別が、弁証術にせよ科学にせよ、理解されていたのだ。その意味において、より重要なのは、「」であり、神のいない仏教では、それがそのまま帰結となってしまっただけであるように思う。中間項としてそれを構成して、それで終わらなかったことが近代社会にとって意義深かったのであった。

 

 

ピエール=シモン・ラプラス 1749年03月23日 - 1827年03月05日
ジョージ・ブール      1815年11月02日 - 1864年12月08日
オリヴァー・ヘヴィサイド  1850年05月18日 - 1925年02月03日
アンドレイ・ニコラエヴィッチ・コルモゴロフ
              1903年04月25日 - 1987年10月20日

ロトフィ・アスカー・ザデー(Lotfi Asker Zadeh、
本名:ロトフィー・アリーアスキャルザーデ
(ペルシア語: لطفی علی‌عسکرزاده Loṭfī ʿAlī-ʿAskar-Zāde)
              1921年02月04日 - 2017年09月06日

 

ブールの死後、トドハンターは未完成のブールの遺稿を集め改訂版の出版を計画したものの、元の論文の改訂版の出版が不可能であることが判明し、1865年に元の論文の補充分として遺稿を印刷した。 

ジョージ・ブール - Wikipedia

日本の近代数学トドハンターの翻訳に始まり

「明治十何年という時代には、数学の書と云えば、すべてトッドハンタのものであったと思う」

P153,72.コニクセクションズ
数学の文化と進化―精神の帰郷―,高瀬正仁現代数学社

西田幾多郎が言ったのであるが、日本では、ブールはどこへ行ったのだろう。

クザーヌスは「知ある無知」や「反対の一致」などという独創的な思想を唱えた。クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。

ニコラウス・クザーヌス - Wikipedia

〈鏡〉の比喩を用いた、極めてオーソドックスなアリストテレシャン乃至ネオプラトニシャンである。
ニコラウス・クヌーザスが素晴らしいのはサイクロイド曲線を考察したからである。
P110.『52.曲がっているものは曲がっていない』

西田幾多郎がたびたびニコラウス・クヌーザスに言及している。
西田の禅には、根底に西欧数学があるが、「挫折している」と考えた方が良いだろう。それは元良勇次郎にしてもそうで、挫折の受け皿が、反科学の禅であった。
思想史から言えば、(全体主義というか、それに先立って、方法論的個人主義に対立する)方法論的ホーリズムが伏流する、大正生命主義の「正体」であっただろう。

デカンショ節」と呼ばれた高等学校学生の教養主義も、今となっては、特にカントについてはあまりに「保守的」で、将来を嘱望されるエリートの「第一」に依拠すべきこととしてすでに、、、決して褒められるようなしろものではなかった。


【メモ】

mine-3m.com

訂正 Aしたり、Bされたり → Aしたり、Bしたり

(自分が)犯しがちな「間違い」(この指摘があってから、自分の気づいたもので、少なくとも2度目。)。なぜ括弧つきかというと、捻た表現の範囲内で、違和感を覚えなかったからだが(「正調」ばかりだと妙に疲れる。)、「正しく伝える」ことを目標とすべき素人が自己主張をする必要がないので、 素直に従う。
歳をとってそれなりに幾種類もの人間を見たが、ここで素直になれない方がおかしな人間だと気づいた。

なんども間違えるので、恥ずかしくて、イラっとした次第である。

 

 

なんでも「素直」になるべきでもない。
これは正しいから従うのであって、正しくないことにしたがうのは、ハラスメントだ。
ハラスメントは危険負担を前提として、近代的合理性の下での対立利益を扱っている。

今までは、上司がコマンドの内容を十分把握する必要がなかった。形式に則ることと、内容を把握することが同じではないことがあって、「形式」と「実質」の区別に近づく話だが、形式に則っていれば、内容を理解する負担を移動させることができたということである。

この「形式適合性」の判断が、「解釈自由」というカテゴリーに属するという主張が「加害性(ハラスメント)」の原理である。

だから往々にして、「ハラスメントと思わなかった」と(無効な)「反論」がされる。ハラスメントが総合的に評価されるとき、むしろその主観が「ハラスメントの構成要素」とみなされることにすら、気づけていない。

なぜならば、ハラスメントの原理とは、意味還元的には危険負担だからで、ただし、加害性の認識の問題として、「詐欺」「脅迫」と同型だからである(危険負担が詐欺、脅迫迫と同じではない)。

すなわち、合理的な個人を相手取って、ある類型にしたがって、その合理性を侵害する行為が「詐欺」「脅迫」である。「錯誤を生ぜしめる」「畏怖を生ぜしめる」ことで、客観的に言って自己に意思に反して※、求められるべき合理的な判断をする権利を侵害することである。※「脅迫」(そのもの)の定義になるが、「自己の意思」とは「うなづくこと」ではない。

原理構成の基本的に、マルクス主義社会は、このような内容を持つので、戦前乃至戦後の社会主義的な風潮は、常にある戦争への備えを動機に持って社会を差し回しながら、構造的には、ヒエラルキーの問題として、違法乃至不当な危険負担の問題を胚胎して、「男社会」だったのである(したがって、彼らが主張する「反体制」は、彼らが敵対する体制と同型になる)。
今は、それへ、全面的に、疑義が呈されている。

「好きフェミニズム」「悪しきフェミニズム」をいう言葉で、マルクス主義を擁護するのは二重に転倒していて、まず「マルクス主義ヒエラルキー問題を排除しない」から(フェミニズムに限らず)忌避されるべきで、そのとき、敢えて言うならば「(マルクス主義に毒された)悪しきフェミニズム」と謂えるかと言えば、その場合「フェミニズム」とカテゴライズするのが形容上の誤りである(誤謬である)。

単純に、マルクス主義は害悪である、と言えば済む。
つまり、これは分岐問題であって、マルクスのような単純な理解では、「矛盾」を生じるだけに過ぎなかったのである(マルクスが規範的なのは、単純に、その所為である。『確率の出現』に従うならば、マルクスは「証言的」であって「証拠的」でない億見に満ちている、ということになる)。

反対にギリガンは分岐問題であると正しく把握していたので、マルクスより相当健全なのである。マルクスは分岐問題ではなく、対話(不能な)問題として捉えたに過ぎない。それを言い訳する必要はない。

パワハラというとき、上司は可能な意味で理解して自己の責任において(すなわち、不利益を引き受けて)指示を発出する義務を負うのであって、それに付随する「危険」(と謂うコスト:不利益)を移動させるとハラスメントを構成し、そのとき、部下は適正に権利を主張して、擁護されるのが、対抗要件の具備である。

簡単にいうと、上司は当然に(指示に胚胎する対立利益を判断でき、不適切な指示に正しく評価を与えられる程度には)当然に有能でなければならず、なおかつ、不適切な指示があった場合には、部下が対抗できることが、法的構成から必須である(二段構えとなっていることが求められている。反対に、二段構えであることを突き崩すのが、ハラスメントであるーしたがって、これは再帰的であるがゆえの収束問題の様相を呈する。意味を発散させてはならない、という命令である)。

newspicks.com

メンバーシップ型雇用/ジョブ型雇用か、メンバーシップ/オーナーシップかのどちらを言うべきかは、形容上の問題だが、相変わらず「信念の体系」に依存するのはこのメディアの性質からそうであるとしても、ならば、二重構造を以て「可能の体系」に拓こうという飛躍的な発想に至ることが珍しいのは(ただちに間違っているわけではない。日常会話の言語レベルで、それを排除しているとも言えない。つまり、ここで謂いたいのは、日常会話に留まざるを得ない状況を指している。※)、論理が「ディベート」に分岐する以前のものであることの教育が「ない」からだと思う。

※筋が悪いわけでもない。すなわち、「シップ」への形容から「雇用」への形容の推移が、構造上の畳みかけと類似するからだ。「シップ」と言わないから「間違い」なのではなく、そこにある単純さの「克服」への指向の現れであるが、十分、合理化されていない「ニュートン的直観、職人芸」の世界のままである(ゆえの弊害がある)ことは否めない。

この対立は根深くて、文芸上の〈判断〉〈評価〉の問題と相同である。
さいころから、国語で〈判断〉(文芸国語)ばかり習っているのが、日本社会である。要は、

  • 論理国語に反対する
  • メンバーシップ(能力主義=判断主義=心理主義)が過重負担を帰結することに抗議する

が矛盾なく並立するのかどうかである。