今日の社会

わかった。これは「主権」の理解の違いにも影響が出ているのだろう。

けれど、あんまり答えたくない。

「緩衝国」とは「奴隷契約」であると考えるとは、何か。

という問いに応えることとなる。このとき

  1. 奴隷契約を許容する
  2. 奴隷契約を許容しない

という立場に分かれるようだ。
この点で、橋下徹池田信夫、篠田英朗は〈世界(観)〉を共有している。
すなわち、「奴隷契約」は、以下の、十分条件、必要条件を持つからだ。

3つの「主権国家」から成る〈世界〉を考える。
契約は単独の主体間の相互における行為羈束であり、自己支配を前提とした自己拘束を原因とする。
ここで、「契約」と「自己支配」の関係が鍵で、この〈世界〉では、契約があるとき、契約に漏れる主権国家が必ず1つ存在する、ということである。
すなわち、「契約」の主体ではないがゆえに、「自己支配」から中立な国がある。
これを、ここでは、「契約」の客体と呼ぶ。
これが、奴隷契約の必要条件である。
もちろん、係る「契約」の客体たる主権国家も、主権国家であるがゆえに、「契約」の主体たることができる。
このとき、「自己支配」が自己を所有の客体として再帰的に定義づけられる時、その絶対性ゆえに、自己の〈判断〉のみで譲渡を決定できる「契約」が可能であるとするならば、これが、奴隷契約の十分条件である。

ここで、〈リアリズム〉とは、規範的であることを否定するのであるが、先行する決定に依存しないという意味で、「事後的合理性」を許容する。
これが、奴隷契約の補完性である。
奴隷が、その環境下では、奴隷であることを自ら選ぶ合理性が存在する。

これらをすべて許容するとき、「奴隷契約を許容する」と見做す。
そして、「緩衝国家」を認める、とは、このような意味での「奴隷契約を許容する」立場である。

ならば、ここで問題になっているのは、戦後、我々は、どのようにして係る「奴隷契約」を否定しえたか、ということである。
その鍵は、「裏切り」にある。
このとき、「裏切り」を「考える」とは、「裏切り」をどう合法化するかと、どう構造的に排除するか、の2つの対比から、概念化してゆく作業になるだろうと思う。

ここに戦前乃至戦後の、国際関係ー帝国主義/国際連合/集団安全保障の遷移があり、大競争時代/世界政府(絶対平和)時代/覇権(相対平和)時代の遷移にあって、原理と表現の対となっている。

NATOとは

 アメリカを引き込み、ドイツを抑え、ロシアを排除する

仕組みであり、ECは、
ここに、契約を通じて、「(自己)支配」と「(自己)所有」が交錯する機序が形成されていたのであり、「奴隷契約」(および、「緩衝国家」)に関しても、所有形態に準えて、「単独所有」「共有」「総有」「合有」などの諸概念が、解説を与えるだろうと思う。
一方で、「裏切り」は、これらのロジックに対抗する概念である。
このとき、NATOの東方への「拡大」が意味を持つだろうと思う。

 


こう考えると、

 ウクライナは、善なる存在ではない

との彼ら(上の3人とは限らない。東浩紀なども含まれてくる。)の指摘は、彼らが自認できている以上の、構造的な意味を持っている。
彼らがそのように「見る」だけの原因があるのだ。
なぜなら、それが「裏切り」に関することだからだ。