今日の国語

教養主義」の三島由紀夫

「(仏教的)実証主義」の水上勉

社会主義」の松本清張

橋本氏は三島が清張を拒絶する理由に「子供のようなこじつけ小説」の弱点を挙げている

橋本 治著・「三島由紀夫」とはなにものだったのか: マルジナリア

三者三様である。一方、

は、東京大学が学生に求める或る資質を端的に説明していると思うので、印象的な章題をとりあえず紹介する。ただし、ここでは、長岡の個性的な理解のもとにある。


02話 伝統と流行
05話 〈数学的意味〉をしっかり理解する
第10話 数学における正解の意味
第15話 〈常識〉と〈批判的精神〉
第16話 「思い込み」より怖い「刷り込み」
第19話 寛容の大切さと矛盾しない,ニセモノに妥協しない思考
第20話 美を観賞できるための前提条件
第21話 見えないものを洞察する力
第25話 わかる人にはわかる,見えない人には見えない《明知》
第28話 不遜な反知性に警戒しよう!
第30話 伝統に吹き込まれる新しい命
第31話 数学の勉強についての誤解が生まれる根拠について
第34話 たまには腕力を使うロゴスの世界を紹介しよう
第35話 記号〈表すもの〉と概念〈表されるもの〉
第38話 規制をすり抜ける知恵をもて!
第39話 〈見ていない可能性〉を切り拓け!―負け癖をつけるな!
第40話 〈見えない真実〉に迫る思考
第41話 小さな「ムラ」を出て〈大きな世界〉へ  

私が「個性的」であると着目したのは、第34話であって、「腕力」である。これは「強引」であると思うが、形容詞であるこの言葉が何を修飾していいるかというと、もちろん数学による説明であって、それは言葉であるはずだから、その強引さとは飛躍のことであり、ある種の飛躍は擁護されるとの主張である。
それを長岡はこう解説する。

いろいろな意味で,ロゴスは,冷たいどころか,普遍的、絶対的な心理への希望の根拠なのである.

P145
第34話 たまには腕力を使うロゴスの世界を紹介しよう

なお、強調は、本文のママ(著者による;以下同じ)。
問題は『根拠』の意味であって、その明示的な関係で理解されること、つまりは《証明》を言うのかと言えば、

本当は,それが出来上がる前のそれに至る《発見的な思索》や証明された理論の《深い味わい》を大切にしている.

P145
第34話 たまには腕力を使うロゴスの世界を紹介しよう

ここでは、ロゴスと言っているが、数学が「発見」であるか「発明」であるかの古い論争を引いている。

本当に大切なものは,目に見えないロゴスの世界への敬意であると筆者は思う.

P148(結文)
第34話 たまには腕力を使うロゴスの世界を紹介しよう

『敬意』は確かに大事であると思う。ただし、それは人間の持つ逃れられない器質的な原因である脳に由来し、脳がそのエネルギー消費を抑えるために「柔軟」に対応しようとして錯誤が生じるのを警戒するために必要だろうと思う。
このとき、何を批判しているかと言えば、長岡の依拠する直観主義であり、論証主義にたって、「わかる」よりも「解ける」ときのその形式の利益を優先しているのである(長岡は反対に「解ける」以上に「わかる」ことを重要視する)。
こうして長岡はロゴスの大切さを説いて、結局、何が言いたいか。

数学は、科学と技術の両方であり、かつそれ以外でもある

P158冒頭文
第37話 数学は科学か,それとも技術か

どういうことか。

数学では《もっと本質的な正解》《もっと深い理解》がつねに重要である.これが,数学の,他の分野の学問と違うところであり,数学では,より深い本質の洞察をしばしば《美》という単純な言葉で表現する.数学は,《峻厳な理性で開拓される学理的知見の世界》,《試行錯誤の歴史で蓄積された芸や術の世界》,そしてその両方に基礎を置く《艶やかな感性の世界》なのである.
PP161-162
第37話 数学は科学か,それとも技術か

さて、これをどう理解するか。

① 数学〈〉、科学と技術の両方であり、かつそれ以外でもある

② 数学で〈〉《もっと本質的な正解》《もっと深い理解》がつねに重要である.

③ これが,数学〈〉,他の分野の学問と違うところであり,数学で〈〉,より深い本質の洞察をしばしば《美》という単純な言葉で表現する.

④ 数学〈〉,《峻厳な理性で開拓される学理的知見の世界》,《試行錯誤の歴史で蓄積された芸や術の世界》,そしてその両方に基礎を置く《艶やかな感性の世界》なのである.

いつも通り、〈は〉と〈が〉の構文からなっており、様相の文脈を持つ。
長岡の経歴が興味深くて、憶測であるが、これが彼を個性的にしているらしい。

1947年 長野県長野市に生まれる
     中央保育園(本願寺別院の経営)
     信州大学附属長野小学校
     私立聖光学院中学高校(神奈川県横浜市
1966年 東京大学理科Ⅰ類
1968年 〃理学部数学科
    東京大学大学院理学系研究科科学史科学基礎論(単位取得退学)

その後は、津田塾大学大東文化大学放送大学明治大学で教えたということで、「戦争を知らない子ども」が、仏教、キリスト教マルクス主義全共闘運動)の全部を経験して「革命家」を目指したということらしい(「革命」を目指して大学に入学した)。ただ「革命家」と言っても「世の中の堕落と闘う」のであるから、暴力であるかどうかは、知らない。
そのうえで、師事した藤田宏の好んだ「もののあはれ」や「人の情け」、またそれらを解説した《人生の儚さを見据えた志操》に言及する(なお、この言及の仕方は、上の①乃至④の構成法と同等である)。
こういった経歴と主張は、三島由紀夫水上勉松本清張らとつながるところがある。

 

ちなみに、私は、東大と日大は同じくらい「偉い」と思っていて(学生運動にはまったく興味がないというか、ただの「暴走族」だと思っているー或いは、本当は一時期の日本にとって「脅威」だった元軍人らを隠す蓑に過ぎないと半ば思っていて、日本の大半の有権者の支持など到底得られなかった「非実力集団」である学生運動は一度も日本「脅威」になったことなどなく、情報の非対称な状況での、焦点化による詐術だと思っている。私が「偉い」と言うのは、建学の精神に共感するものである)、藤田宏は「まことに偉い人だ」と思っていたので、亡くなられたのことを非常に残念に感じていたのだが、そのお弟子さんがこうやって活躍されていることに嬉しく思う。


さて、芸術家伊東乾をルポライターは批判する。

伊藤乾は何を言っただろうか。

jbpress.ismedia.jp

いや、取り上げるのは、こちらの記事である。

まあ、国際政治の常識から言って「経済制裁」が「侵略」であるわけがないのは明らかです。

ここは内容から言って「国際法」乃至「国際社会」という方が適していると思うが、これが単に語義の曖昧さに終始する話ではなく、次の内容を説明している。

ここで弄そうとしている詭弁は、チンピラやくざのいちゃもんと大差がない。真に受けて反論する人も見ましたが、その価値も本来はありません。

彼は反論しているのではなく、対比している(、と言っている)。
なぜ、立論の必要がないと主張するかというと、これは「国際政治」であって「国際法」乃至「国際社会」ではないからです。

敢えて言えば、カール・シュミットに沿って敷衍することができる、概念上の違いです。すなわち、伊東乾の主張には、「いちゃもん」の反対物が措定されています。
つまり、ここで伊東は、言葉にならない言葉で、「国際政治」の定義づけを、暗に、行っているのです。


時間がないので、端折るが、指摘の在った「河瀨直美の祝辞」「学歴差別」に回答するならば、前者についてはその主張或いは主張方法において両者にそれほど隔たりがあると確信できるに至らず、後者については、長岡に通じる、技術問題(「技術」そのものへの誤解と「罵倒」という面前のテクニカルな問題の双方)であると思う。

なお、私自身は、伊東乾を以前から、問題の在る主張が多いな、と思っています。