さて,存在論革命はさらに進んで,エミー・ネーターによって数学の抽象化が始まった.ネーターは当初『環におけるイデアル論』(1921年)においてイデアル論が代数曲線論と整数論の両方に通用することを見出した.まったく異なる二つの理論に共通の基礎が存在することを発見したのである.
P69,3数学とは何か,数の発明,足立恒雄,株式会社岩波書店,2013
せっかく2通りの回答(楕円の図からの回答と整数の表からの回答)を得られたのであるから、じゃあこの先に何があるのか、を考えると大学で学ぶ数学へと近づいてゆく。
そうすると、「入試」というのは、かなりファンタジーに彩られているけれど、或いは、社会の何かしらの反映であるけれど、それはあくまで「競技」であって、だから、その行為規範にに忠実なさまを求めてもよいし、そうではなくでもよい。
つまり、「ゆっくり」考えてもよいのであって、それは評判の悪い「推薦入試」でもなければ、できないトライアルだ。大学は複数の目的と多様な活動をする事業体であって、大学が求める学生を求めればよい。
『環とは整数と多項式に共通する基本的な性質を抽象化して得られる代数系のことである』(P89『なっとくする群・環・体』)とのことであり、
- 整数について証明したことが,多項式にもあてはまること.またそのことが同じような手順で証明できることを指摘する(証明の詳細には立ち入らない).
- 環の理論によって,整数と多項式に共通する性質をまとめて証明する.
へと進む。ここで、ユークリッドの互除法と一次不等式から、素因数分解の一意可能性が出て来る。
大学入試においては,ユークリッドの互除法は最大公約数を求める問題よりも,一次不定方程式 ax+by=1に関する問題で活躍します。
ここで、4X+3Y=1,4=3×1+1,3=1×3+0のユークリッドの互除法を用いて、4X+3Y=4と,添え字を付した4X2+3Y2=22 を考えたらどうなるのか、という話である。
すなわち、直観的に考えると、自然数の集合では、基本数が1であるところから、ax+by=1が成り立ち、これをそのまま平面(幾何)的な「長さ」に置き換え、ax+by=r(=1)、或いは、afx+bfy=r(||ℛ||)で「適当に考えよう」と提案していた次第である。
【比較検討】
16 探求題 円周率の求め方
円周率が3.05より大きいことを証明せよP474,理解しやすい数学Ⅰ+A
これは、正多角形の内接円と外接円で挟み込むことで、円周率(=円周/直径)の範囲を求めてゆく(片側の)問題である(両側で考えると、3.05<π<3.25)。
今回は、楕円の内接円と外接円の関係から考え始めてみた。
余談である。
まずは、二重数学的帰納法を用いて、云々をやろうとしていて、面倒くさくなったところである。再開するかはわからない。
3.2.環とは何か
次に,代数系「環」の基本的な定義を述べておこう.どれも整数についてはあたりまえの性質ばかりであるが,「文字x,y,z,・・・が,整式(多項式,あるいは有理式)を表している」と考えても成立することに,注意してほしい.
補足 環とはドイツの数学者ヒルベルト(1862-1943)が用いたドイツ語リンク(Ring)の訳語で,原語を独和辞典で調べてみると,指輪など“輪(環)”をさすこともたしかにあるが,ボクシングの「リング」のように,競技場・土俵など,ある区域ないし領域を意味することもある.日本語訳・環やフランス語訳・アノー(anneau)にはそういう意味はないが,「ヒルベルトの Ring は,競技場のようなものではなかったろうか.区域的の意味が当然あるべきところだ」という説もあり,そう考えた方が代数系名前としては妥当なように思う(高木貞治「日本語で数学を書く,等々」,「数学の自由性」ちくま学芸文庫,69ページ).
PP94-95,第3章環の理論—整数と多項式はおんなじだ,という理論―
「推薦入試」について言うならば、「ゆっくり考える」はそのまま「粘り強く考え続ける」という、研究を志すうえでの基本的な資質を問うたり、ひとつひとつを丁寧に考える、順序良く取り組む、誠実に取り組む、(ある時点と別の時点で)変わりなく取り組む、という社会人としての標準的な資質を求められたりするので、十分活用するに値する制度であることを認められてよいのではないかと思う。
一般入試と推薦入試を比較することには、社会からの「暴力」が胚胎することを忘れてはならない(もともとは、「推薦」に付随していた権力性に暴力を見ていたのだが、機会均等への指向にも、胚胎する「暴力」が「在る」ことを忘れてはならない。能力はもっと自由である、という単純な主張である)。
そもそもごく単純な事実として、所謂「一発入試」が当然ではないのは、税理士試験など、より社会的に高度な受験を見れば明らかである。
入試改革に見られた「一発入試」に拘泥するあからさまな醜悪さは、ただの社会的な暴力である。ただし、現実的な問題として、技術的な制約があるかもしれない。
それはそれこれはこれ、ということは、忘れてならない。暴力は暴力である。
モリカケ云々などという戯言で、裁判所は詐欺を認めたし、財務省は暴力を認めた。
認めないのはマスコミである。まことに恥ずかしい連中である。
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ
新共同訳: Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳
図書館にも、本屋にもない。
何か。
「ライ麦畑の捕手」は誤訳だよ三田誠広さんーー pic.twitter.com/8FEOGD1P44
— 小谷野敦とちおとめのババ・バロネッタ (@tonton1965) May 18, 2022
そうなのか、ということで、
こういう話が特に好きではないので、本を読んでいないのだけれど(『フラニーとズーイ』は買って、つまみ読みした。)、紹介された文章だけ見ても、すごく不思議な感がを受ける。
ところが、みんな(だと思うけれど)、自然に翻訳している。
え?
と思うんだよね。例えば、"in"ってどこに繋がるの?って誰も迷わないんだね。
この主人公は、所謂『信用できない話者』だ。頭がこんがらがって「当たり前」なのは、読者は『信用できる読者』のはずだからだ。
picture-in- pictureの意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書
catch inの意味・使い方|英辞郎 on the WEB
"caught in"の意味・使い方|英辞郎 on the WEB
field | ロングマン現代英英辞典でのfieldの意味 | LDOCE
in the fieldなのか、on the fieldなのか、或いは、on the groundなのか。
そもそもこの『信用できない話者』が聞き間違えたという事実に基づいているのに、言い間違えない保証があるだろうか?
「lie」と「lye」と「rye」と「wry」の意味・発音の違い
「モンスター」を作り出すのは、誰か。
20年前にサントリー学芸賞を受賞している。