「鎌倉幕府の成立は頼朝が将軍になった1192年とされてきたが、それに対する異論が続出しており、私もこれこれこういう理由で◎◎年説を採っている」と講義して、「鎌倉幕府の成立を自分なりに考えよ」とリポートさせたら「1192年。頼朝が将軍になったから」という内容のものが続出して絶望するのです。 https://t.co/mXqwDgdw2W
— 山田邦和 (@fzk06736) June 19, 2022
まさに「我思うゆえに我あり」(への誤解)。
主体的な答え方で、「私がそう思うところの理由を述べた」から「自分なり」なのでしょう。
続出して
ということであるから、単純に誤解しているのだが、共通の規範として受け取られている。それが問題。
デカルトの実在論はアンセルムスの「キリストの擁護(神の存在証明)」と表裏一体で、本質的に、【可能性】から【必然性】を導く手順を明記するものとなっている。
このとき、学生が受けた先生の講義は、「論証の方法論の指導」ではなく、「主体的判断の素材たる知識の提供」を受けただけと受け取られたのでしょう。
鎌倉幕府の成立について、講義方法を参考にして、可能性を検証することを経てより説得的な、(貴方自身の)ひとつの仮説を立てなさい。
くらいの言い方をすると、問題文自身が教育的な効果を持つかなぁと思わないではない。
そうすると、内容そのものも(当然)問われているが、方法論が問われていると思えるかどうか。
要は、
- 講義方法を参考にして
の部分が、先生は「当たり前」だと思っていると思うけれど、講義を受けている学生には、「当たり前」じゃないんだろうね。
つまり、「考えるための方法」を学んでいるのではなく、知識を享受していると、まだ、思っているんじゃないかな?
高大接続問題かな。