骨を埋める覚悟              「閥」と人事の植民地化

 

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さて、田中義一が大きくした軍を、今度は「整理整頓」する必要が出てきた。
ウドの大木では困るからである。

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その役目を担ったのが、宇垣一成であり、すなわち、それはひとつの共同体であるから、学校と警察(憲兵)と、それらを含めた軍備の刷新と、その維持のための資源調達である。

こう考えると、主流派は、自然にすべきことをしてきたことがわかる。

すなわち、田中がつき、宇垣がこねし天下餅、座りしままに食うは、梅津。
といったところで、梅津になると、「閥」が必要でないくらいに軍人社会も完成していたが、この頃には、もう終わりに向かっていたので、「尻ぬぐい」ばかりと愚痴ることとなった。

もう少し巻き戻すと、反主流派のひとつが、石原の自称「満州閥」だった。
なんのことはない。
本当は、薩摩閥や佐賀閥と同じで、宮城閥や東北出身者の軍閥であるべきところ、軍内に人望がなかったようである。遅れて来た「地方閥」であった。
ただ、人望がないだけに厄介で、権謀術数に長けていた、いわば伊達政宗である。
梅津が徳川家康なら、それくらいの格の違いがあったのではないかと思う。

その石原の仕掛けたのが、軍部大臣現役武官制の復活で、やがて後悔することとなったが、そもそも石原の存在自体が(地方閥を創り上げるその方法が)、余計だったのではないかと思う。軍は違う方向へとうに向かっていたのだ。
石原の愛弟子ともいうべき田中新一は(武藤との戦略の対立もあって)注目すべきであるが、石原は参考程度に眺める程度で十分でないかと思う(石原や永田を希代の戦略家と持ち上げるのはどうだろう。石原はあまりに前時代的な―あまりに「科学的に」こなれていない、物語の語り部に過ぎないし、永田は、あまりに技術者然としている。c.f.下記の東條英機とその周辺)。
むしろここで石原に見るべきところがあるとすれば、田中義一の施行した関東長官現役武官制(ただし、文官を排除せず。)のアイデアの素と行く末である。

飯田)内閣府特命担当などと。

高橋)特命担当で、人事権を誰が持っているかと言うと、官房長官なのです。すると役人は、「大臣は人事を行う人ではない」という感じで対処するのです。だから、そこに骨を埋める人はまずいません。骨を埋めたときに代わってしまうのだから。人事はまったく別系統なので、いくら高市さんにいろいろ言っても、自分の人事には関係ないのです。役人は自分の人事を中心に、それを目標にする人が多いのです。

飯田)自分が出世するのかどうか。

高橋)そうです。だから、この大臣にいくら言っても人事は関係ないと思うと、それなりの扱いをするのです。私から見れば内閣府担当大臣は格下げのイメージです。河野太郎さんもそうですけれど。もともと省庁大臣をしている人でしょう。省庁大臣というのは、防衛省総務省など、人事ができる大臣なのです。

「人事権のない格下げ」である、河野「デジタル大臣」と高市「経済安全保障担当大臣」(ニッポン放送) - Yahoo!ニュース

私はそうした経緯をたどる「関東閥(満州閥)」の成立に平沼騏一郎が関与したのではないかと疑っているが、真相は如何?

 

なお、

官報. 1909年05月29日 - 国立国会図書館デジタルコレクション

陸士21期兵科卒業席次1番の飯村穣は、石原と同期で、石原は歩兵科を7番で卒業している。

陸軍士官学校卒業生一覧 (日本) - Wikipedia

その飯村と陸大第33期で同期だったのが澄田𧶛四郎(首席)で、澄田は陸士24期で、甘粕正彦と同期である(澄田は、重砲兵科卒業席次1番の優等銀側時計下賜、甘粕は兵科卒業席次34番であった)。

官報. 1912年06月01日 - 国立国会図書館デジタルコレクション

飯村は、総力戦研究所で、後の戦争の行く末をほとんど正確に言い当てる分析結果を提出したことで知られる。

飯村穣 - Wikipedia

そういう時代へ向かっていたのだ。東條英機は、どうしても、その結果を受け入れなかったことがクローズアップされて語られやすいが、一人日参しては熱心に見学したそうである。
その後、大東亜会議を主催したのも東條であって、大西洋憲章に対抗して大東亜共同宣言を採択したのは、内実はどうであったか、評価が難しいが、このままジャパン・コモン・ウェルスへ向かっていたら、石原など到底足元に及ばない人物となっていただろう。石原や永田は「小さな」軍社会の中で評価され過ぎなのである。もとより、石原は、所詮傍流の遅れて来た地方閥に過ぎない。


ちなみに、卒業席次は、在籍した科ごとに付された番号のみに注目すればよいと思うようになった。総合何番というのは、不必要と思うに至った次第である。

官報の発表からして、歩兵科1番、騎兵科1番、という記載なのである。
帝大でも、当初はイギリス法が「主流」だったとはいえ、そういうのは、流行り廃りがどうしても付きまとう。専門も別れ、ごっちゃにして理解する方がナンセンスになってゆくのが自然だろうと思う。

卒業席次に拘ったのは、東條がけなされやすかったところ、本当だろうか?と疑問を抱いたからである。陸士の卒業で軍人として完成するわけでないのは、陸大の卒業席次とかけ離れていることから当然であるし(このとき、同じであればよき反例となるわけではない。したがって)、陸大の卒業についても同様であると推認してよいのではないだろうか。「将来に期待がかけられる」程度の、本質的には組織運用の効率化の話である。石原の陸士(兵科)卒業席次7番と東條の陸士(兵科)卒業席次10番など、とるにたらない差であり、実際誰も気にしていない。