廃校していた10

 

markovproperty.hatenadiary.com

 

この直後の法制審議会では美濃部達吉が女子にも選挙権を与えるように主張したが否決されている。
P11,近代日本女性の政治的権利獲得運動 松田恵美子

名城法学第71巻第1号

たとえば「日本臣民ハ法律命令 ノ定ムル所ノ資格二目シ均ク文武官二任セラレ及ソノ他ノ公務二就クコトヲ得」(19条)と,日 本臣民が平等に各種の公務に就き得る権利能力のあることを認めていても,女性には認められ ていなかった4

〔4〕美濃部達吉憲法撮要』(有斐閣1946年)149頁
P164,日本における女性の法的権利,地位の変遷に関する研究(Ⅰ)沢津久司

赤字強調は引用者

美濃部の場合は、法制審議会での主張(とその顛末の説明)や、戦後の教科書がわりあい知られているように見える。

四年ほどして助教授に推薦されるが、美濃部達吉(25-1-24-1)の「未婚の女性が男子学生に教えるなんてとんでもない」との反対で大学を去り、'27(S2)母校の日本女子大学教授となる。

高良とみ

4年ほどして助教授に推薦されるが、「未婚の女性が男子学生に教えるなどとんでもない」という美濃部達吉の反対により九州帝国大学を去る。

高良とみ - Wikipedia

富山生まれであるが、父親が内務官僚だったので、偶々のようだ。もとは土佐藩士の家である。母親はミッション校を出ているらしい。
時系列がよくわからないのが、本質的に難点であるが、この通りである。
一方の「熱い男」上杉はどうか。なにしろ、熱いので、また論争をしている。

婦人問題(上杉慎吉,明治44年・1910年) - 国立国会図書館デジタルコレクション

  1. 結婚すべきである
  2. 婦人には婦人の天分が在る
  3. それは家庭でよく発揮される
  4. 夫を捨て、子を捨てるのは、よろしくない
  5. 婦人の天分は、職業では、福祉関係(看護師など)で発揮される
  6. だからといって、大学進学に差別を設ける必要はない(天分と矛盾しない)。
  7. また、(国体から定義される)公人たる資格に於いて天分の違いから差別されてはならないので、婦人選挙権は認めるべき

上杉は、婦人は結婚が「天職」であって、寡婦になった場合においてもその天分に変わりがなく、かつて穂積鎮重が主張した養老年金の理論があるなら、婦人にも当然受給させるべきだと説く(寡婦保険、寡婦救済制度)。真の夫人の解放は職業からの解放だからであり、それは社会的義務だそうである(だから、職業訓練校も望ましいところではないが、それを否定するかどうかには女性の権利として留保を付ける。とにかく、女性の知識の獲得については、大学進学においても同じで、否定されず、男女の機会均等を主張する。)。そして、それでも孤独な婦人には、婦人が寄り添う「ホーム」事業が妥当であるという。
読みづらくて仕方がないが、とにかく、男女の機会均等から、大学の開放を説明したのは、愁眉である(「主張」という恰好を採っておらず「そのうような主張がある」として紹介、というよりも、説明を加えており、実質、上杉の意見とみなして差し支えないように思う)。この文脈で、「高尚な職業」も触れるが、それは深堀していない。
高尚の教育に対する、男女機会の均等なり。婦人解放論者は、之を以て、婦人に高等の職業を与ふるの途を開くものと為すのみならず、婦人の精神的能力天賦の、男子と同一なることを承認するものとするに似たり」(P269,上掲)。
回りくどくて、一体、何が主旨なのか、意見なのか事実なのか、迷うところであるが、おそらく、上杉は自分もまた婦人解放論者であると言っているのである。鍵は「似たり」であり、「同じ」ではない。上杉としては、婦人には婦人の天分の才能があって、それは結婚であり(この語法も独特で、結婚で発揮されるわけではない。つまり、道具的でない。これが上杉の婦人観の枢要で、人権とも違うが、国体を為す公的存在としての天賦の存在意義があり、他者から侵害されるべきでないという帰結を導いているようだ。だから、救済されるべきであり、保護されるべきであり、性欲の対象として結婚相手にされるべきでなく、仮に知的能力に男女の違いがあったとしても、大学での研究も含めて、婦人教育を制限すべきでない。)、結婚のためにも、様々なことが準備されなければならないと説く。家政教育にとどめるなんてもってのほかで、「少女」を結婚に耐えられなくするだけで父兄の心配事になるだけであり、職業教育に追い遣るなんて「ちょっと待て」ということである。そして、結婚を為すために、すべてを賭けるのであるから、そのために生活できなくならないように社会保障を充実しろと迫るのである。これは、何か特別な事情があったとしか思えないくらい、「過激」な主張である。
上杉の本願は社会調和で在り、ただし、これは調和のメカニズムで説明されるようなことではないのだ。それを構成原理から追及するのが、特徴である。
上杉の天皇主権説とはこのようなことであり、対抗的機序を排して、調和を貫くための原理である。そしてそれは、公人としての自由が保障されることであった。
なるほど、自由論者とも異なり、マルクス主義にも理解を示すはずである。
これが彼の「幾何的ホーリズム」だろう。

 

1913年(大正2年)に黒田ちかが東北帝国大学へ進学したときに激励したという話もあるし、このときの学長がまた加賀の人北条時敬だったので、縁があったのかもしれない。
帝国大学の誘致に関しては、金沢は東北と張り合っていたのであるが、その後の黒田ちかの研究の経緯を見ても、その資質から言って、医学部を中心としてたとえ金沢に帝国大学が設立されていたとしても、おそらく、入学できたのではないだろうか。

第1章 女子大生の始まり|東北大学 特設サイト 日本初・女子大生誕生の地

ところが、吉野作造は慎重である(P162,下掲)。

婦人問題(吉野作造,大正5年・1915年) - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

上杉は、大学教授への就任については述べていないが、『貧民救助、孤児養育、病者看護、出獄者保護、幼児保育、貧児教育、労働紹介、住家改良、病院、庶民食堂、庶民図書館の設立等なり。これらの社会的扶助事業』(P230,上掲)で「妻に代わり、母に代わり」従事すれば3つの目標を達せられると、アリス・サロモンを援用して、言う。

Alice Salomon - Wikipedia

要は、勉強して、どうも自分でも社会を展望すると、そうだな、と思ったところを述べているらしい。穂積八束の後継を自認するところ社会学に関心を寄せて、統計資料を載せても、社会調査などできない人だから、そこらへんは仕方がないのだろう。
金沢の実情を知っているので、どうも、究極的な目的は「子ども」なんじゃないかと思わないではないが、わからない。だとすると、ルソーの棄児保護のための結婚政策と似て来る。「女性の天分」に関しては、ヨーロッパの耳学問の影響もまた大きい。すなわち、「事情通」だ。

早死にしたせいもあるのか、「未婚の女性が男子学生に教えるなどとんでもない」に関してどういう意見を持つのか、よくわからない。
「ネーターボーイズ」を考えると、上杉なら、「婦人の天分に適う」と言いかねないが、実は、上杉と美濃部はともに芝居を見に行く仲だったので、こういうところは一致していたかもしれない。

この知らせを受けた美濃部は、(引用者注:1924年大正13年12月9日の)翌 12 月 10 日 法文学部を女子に開放する必要を訴え、評議会決定の再考を求める書簡を総長宛に送付した。
PP266-267,第三章法文学部の創設

九州大学百年史 第1巻 : 通史編 Ⅰ 九州大学百年史編集委員会