推古天皇聖徳太子の隋外交と同じ、コミュニタスな三段論法である。

【コミュニタスとはなにか】その意味や具体的な例をわかりやすく解説|リベラルアーツガイド

Of course, I am not saying that Japanese philosophers never use refutation and Western philosophers never use allocation, hybridization, or relegation.

The Oxford Handbook of Japanese Philosophy (Oxford Handbooks) (p.88). Oxford University Press. Kindle 版. 

もちろん、日本の哲学者が反論を使わず、西洋の哲学者が配分、混成、降格を使わな いと言っているのではありません。

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赤字強調は引用者。
これは、(普遍論と異なり例外を必須とする)「一般論」と断ったうえで、十七条憲法のことを言っており、この後、詳細に検討を加えているらしい。

十七条憲法 - Wikipedia

もう少し続けると、

Of course, I am not saying that Japanese philosophers never use refutation and Western philosophers never use allocation, hybridization, or relegation.I am speaking in generalities, and generalities not only have exceptions, they must have exceptions (otherwise, they would be universalizations not generalities). But if we are looking to the Shōtoku Constitution as an indicator of an early step in what would become the general direction of the evolution of Japanese philosophizing, a generalization is all we need. Having concluded these preliminaries about assimilation and refutation, let us now turn to Shōtoku’s Constitution.

The Oxford Handbook of Japanese Philosophy (Oxford Handbooks) (p.88). Oxford University Press. Kindle 版.

もちろん、日本の哲学者が反論を使わず、西洋の哲学者が配分、混成、降格を使わな いと言っているのではありません。 私は一般論を述べているのであって、一般論には例外があるだけでなく、例外がなければならない(そうでなければ、一般論ではなく普遍論になってしまう)のである。しかし、聖徳太子憲法を、日本の哲学の進化の一般的な方向性となるような初期の 段階の指標として見るのであれば、一般論で十分なのである。以上、同化と反駁について前置きをした上で、次に聖徳太子憲法に目を向けることにしよう。 

DeepL Translate: The world's most accurate translatorで翻訳)

であり、前段にアリストテレス

Is Dignāga’s and Dharmakīrti’s Buddhist logic any less rigorous than that of Aristotle or Aquinas?

The Oxford Handbook of Japanese Philosophy (Oxford Handbooks) (p.18). Oxford University Press. Kindle 版.

ディグナーガやダルマキールティの仏教論理は、アリストテレスやアクィナスの論理よりも厳密さに欠けるのだろうか。

(DeepL Translate: The world's most accurate translatorで翻訳)

ここから、聖徳太子による、隋との仏教外交へ話が繋がる
ここで謂うアリストテレスの論理とは、ソクラテスの方法論を進歩させた、「矛盾律」と「排中律」を使った論理のことである。すなわち、X/notXの峻厳な関係であって、いずれか一方でしかなく、この2者以外にはない関係のことであると説明されているようだ。

しかし、本当だろうか?

アリストテレスの論理学を完成したクリスティーン・ラッド=フランクリンは1883年に論文を発表したのだ。

Christine Ladd-Franklin - Wikipedia

それまでは、完成されていなかったのである。

「中間命題」のことだと考えると、そもそもアリストテレスの三段論法も"アマルガムな"中間項(の組成)が本質と理解されていたはずである(ストア派に洗練されて、「矛盾」を詳細に検討したデカルトの曲線論へつながる)。
それがよしんば「発想法」のレベルに過ぎないとしても、アリストテレスは、「平均」(中庸)を扱う倫理学を、論理学と違うものとして区別しているのである。オックスフォードの論文で言っているのは、まさに倫理学のことであって、論理学を直ちに説明に使うこと自体が、疑問である。アリストテレスはそう言っていないからである。

それはそうと、その集大成が十七条憲法という指摘は興味深い。
もとより、推古天皇聖徳太子と隋の煬帝のやり取りが、新しい世界観による、「仏教外交」であると明瞭に説明しているのも好ましい。日本ではなぜ、変な理解、場合によっては変な教え方、をするのだろうか?