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IAGO
Sblood, but you will not hear me:
If ever I did dream of such a matter,
Abhor me.
イアゴ
なんだって、君こそおれの言うことを聞こうとしないんだから、
おれだってこんなことになるなんて
夢にも思っていなかったんだ。Abhor me= Shrink from me in horror. 前の "If ever ..." を強く打ち消す働きをするので、"If ever I did dream ..." が、"I never did dream ..." と同じ意味になる。同様に次の "Despise me, if I do not" は強く肯定すること、すなわち "I do" と同じになる。近代の例では 'Damn me if I do not'(I do indeed) その他同様の言い方がたくさんある。
Despise me, if I do not.
そうさ、憎んでいるよ。
赤字注釈は引用者。
これは二重否定ではないが、二重否定に含意される再帰(手続き)との類似を見る。
日本語にも似たような語法があって、逆説仮定を現すとのこと。歴史的には「放任」用法で現れることが多く、「放任」用法とは「未然形+ば+命令形」の特殊な文型をとって、命令の意味を剥脱するものらしい。
複合助詞「であれ」「にせよ」「にしろ」の変遷,北﨑勇帆の例(P.1)を見る。
そばにしろ、うどんにしろ、なんでもいいんだ
と謂うとき、
そばにしろ、なんて言わない(命令しない)。
ということを言う。このとき、これを(日本語の場合)「放任(している)」と呼びならわしているようだ。
(P.9,同前)
(P.11,同前)
夏目漱石先生評釈Othello - 国立国会図書館デジタルコレクション
では該当箇所に何の注釈も加えていない。
さらに興味深いのは、
古代ギリシア語における畳音式名詞の現れとその印欧語的解析,吉田育馬
言語の歴史を遡ったときの畳語の再帰的性質で、名詞化されることで、存在を示したらしい。例えば、「ビーバー」は、茶色茶色なのか?、(あの)「茶色い奴」(P.61)となったらしい。この「あの」は、「例の」と想起されることで、目前の個別の対象を直接指示するのではないだろう。範疇化である。したがって、規範的である。
古典論理の原初的形態かと期待させる。
さて、
マイモニデスも、神の本質はすべての完成を超越したもので、だからどんな完成も神の述語となりえないと主張する。
P.163下段,中世におけるユダヤ宗教哲学,『ユダヤ哲学』,ユリウス・グッドマン
また、
マイモニデスは、われわれは神の非存在を否定しなければならないと繰り返す。
同上
アリストテレス哲学を(神学から)否定するには、次の3つのことが鍵となるらしい。
- 真空
- 二重否定
- 意思
すなわち、指向性である。光(子)が真空の中へ放出されるのは、神学的な意義があったのだ。レオンハルト・オイラーは当初真空を認めなかった。
イブン・スィーナーの中期作品における生命思想 : ルーフと魂の概念に焦点を絞って
俵, 章浩
breathに関係しているようだ。
この際、「偶有性」がキーワードで、「本質的に(=直接的に)」「偶有的に(=間接的に)」(P.59,第五教訓,医学典範,科学の名著〈8〉イブン・スィーナー)と説明されるように、これは ・藁谷の議論で敷衍すると、「本質的(=主語的)」「属性的(=述語的)」であり、したがって、接辞(コピュラ)的である。
下は『医学典範』の第三教訓で解説される「気質について」だが、「気質とは、相反する諸性質が相互作用を起こすことから生起する性質であり、諸元素において、できるだけ多くの部分が他のできるだけ多くの部分と相互接触できるように小さな部分に分かれている時に起こる。もしそれらの一部分がその効力によって他の部分と相互作用を起こしたと際、それらが一つにまとまった所から(新しい)性質が生まれ、全体に均質に及ぶが、これを気質と呼ぼう」(P.27,第三教訓,医学典範,科学の名著〈8〉イブン・スィーナー)と説明されることである。
第一のものは人間の所有する平衡状態であり、他の存在者に照らしてみられた場合である。これは人間に偶有性として宿るものであり、定義の裡に限定されず、またそれはしかじかの仕方で達成されるものでもない。ただそれは過剰と欠乏の二方向でを持つものであり、もしもその二方向からはずれるとしたら、人間の平衡状態であり得なくなる類のものである☆12。
P.28,第三教訓,医学典範,科学の名著〈8〉イブン・スィーナー
第三のものは第一のもの、即ち類的平衡状態よりも狭い偶有性として宿るものであるが、ただしそこにはある適応性が見い出せる。即ちそれは土地柄や気候風土などに即した諸民族一つ一つに相応しい気質なのである☆13。
P.28,同前
「それ故にインド人の体がもしもスラブ人の気質で出来ていたとしたら、彼は病気になり死んでしまうだろう」と謂う。「固有の気質があり」「偶有性として宿る」ものであり「やはり過剰と欠乏の二方向を有するもの」である。
P.195訳注で☆12が説明されている。「定義」ḥaddの原義「限り」について、「正に「限り」とはギリシア語の「ぺラス」に相当するがそこでは、どこまでも限定を逃れようとする「限りなきもの」ト・アペイロンに対比的な言葉であった」とし、過剰/欠乏を極大化māllon/極小化hētton「の二方向に逃れさらんとするものをぺラスを以て把握しようとしたギリシア人、殊にプラトンを想起させる」という(☟)。
第七まである。
3冊借りた。
☞そう言えば、夏目漱石の無限の問題があって、
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misanthropic病なれば仕方がない。
Life is a point between two infinitiesとあきらめてもあきらめきれないから仕方がない
とは、一高卒業時(23歳)に「厭世病」に悩んで言ったことである。
この「2つの無限」が「謎」とされてきたが、極大化māllon/極小化hēttonとして「逃れさらんとする」ことなら合点が行く。
実は、pointは語源的には「穴をあける」だそうで、古英語由来でないらしい。
語源point, pung, punct (刺す)の英単語の意味まとめ | 読む語源学
意外なところから、pirceに近づいたのであった。
しかし、そこまでなのが、漱石の限界だったようである。
『こころ』は「ネオプラトニックラブ」とでも呼びたくなってきた。
すなわち、「先生」と「K」の間の平衡感覚の崩れである(から、否定される「K」の対である「先生」の、「K」ヘの「愛」が彫琢される—ただし、ホモセクシャルと言えるかわからない。むしろ、不分明なことである。「お嬢さん」は表向きは恋愛対象だが、「先生」と「K」の「愛」を攪乱、或いは、攪拌するために準備されたのではないかと思う。「愛」に関して、「先生」は「先生」である、との同一律が言えるには、それと矛盾する「K」が古典論理的には要るからである。いまほど「「愛」に関して」と言ったことが属性=述語を担う。そして、それが、漱石の正岡子規との「愛」だったと思う)。