Francis Sauveur(PP.4-5)

 

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DeepL logo 翻訳ツールと Google翻訳で翻訳したものを勘案。

 それで、去年の9月のある日曜日の正午ごろ、美しい太陽の下のことです。フランシスが私に会いに来たとき、私は、家人とともに、パリの中央に所有する大きな庭で、楽しく過ごしていました。
 私はドイツから到着したばかりでしたが、ドイツには7、8カ月滞在したものですから、相棒と握手をしたくて、親愛なるフランシスに会いに行くつもりでいました。彼にはこれで1年近く会っていませんでした。

PP.4-5,Francis Sauveur | Google ブックス

なかなか《構文の持つニュアンス》と《意味の持つニュアンス》からなら文の意味合いがつかみきれない。
《構文の持つニュアンス》とはカンマのことで、接続関係で内容が異なってくるので、特に、接続詞を補うことが大変である。
《意味の持つニュアンス》とは、”loca-taires””jouissent(jouir)””heureux””serrer la main””ami””trouver”で、それぞれ、①”loca-taires”と”trouver”、②”jouissent”と”heureux”,③”serrer la main”と”ami”が対になっていると思う。

①の”trouver”はfindが同じか近いが、「合いに行く」と「探しに行く」ではニュアンスが異なり、特に、フランシスとの関係が示唆されるのでこのニュアンスは重要である。また、フランシスは”loca-taires”(家の住人:家人)ではないとすれば、この対比も文脈を構成する。

②の”heureux”はhappyが同じか近いが、happyがあまりに一般的で、良好な家族関係の内にいつも通りの「週末」でも過ごしていた、日常性を強調しているのか、あくまで形容詞として”loca-taires”を修飾して、”trouver”(enjoy)なのである。形式的に「幸せな家族と楽しんだ」とは、「幸せな時間の過ごし方」が主体に係るがゆえの一般化である。主体と行為の関係性で、行為をいくら足し合わせても主体にならないことである。
これもまた、主体/述語/主語の構文的な在り方に於いて、制限/非制限の構成であって、”heureux”で”loca-taires”が制限されるとき、”trouver”の源泉が”loca-taires”であるのに過ぎない。そうすると、そもそもが”heureux”な時間を”trouver”する”loca-taires”であって、たまたまそれが、日曜の午後だっただけである(ただし、それは、いつも通りの「週末」なのかもしれない)。

③がまさに、『オセロ』と共通するモチーフで、”ami”が freind で十分なのかどうかである。”serrer la main”の意味合いであって、その「片方」ゆえの「欠乏」が語られている。つまり、単に”serrer la main”したのではなく、ここで”loca-taires”との日常的な”heureux”と対比される。英語で言うなら、”want to”と”eager to”の違いに隣接しているだろうか?知らない。

『オセロ』にあった「こころの「資産」論」がどう「快楽計算」に移行したかを考える時、ワルラスと並んでよく神に言及したゴッセンも参照できるだろうか。

例えば、近代以前の富豪が、富を遺すことに恐れを抱いたこともあったと聞く。「1割」なら「1割」納めれば済む話であるが、それ以上に恐れたのは、なぜか。


あと、「大きな庭」って公園なのか(語頭が大文字でないので、家に付属した庭と考えた。)、「庭園」といったそういう区別があるのか。
副詞句の語順のルールが曖昧な理解のママかもしれない。

「パリの中央に大きな庭を持っていた。」

って普通の言い方なのか。なんか金持ち自慢に感じるが、日本の小説の場合、どうだろう

「当時、世田谷区に200坪ほどの庭を持っていた。」

そういう表現は「ある」か。別に表現として不自然ではないか。


フランス語ってわからないから、本当は、3巡読みたいくらい。

1巡目は、単語の確認と全体の話の流れをつかむことを中心に
2巡目は、文法の確認を中心に
3巡目は、社会背景、文化背景の確認を中心に。その他

1日1ページも進まない。フランス語の習得が目的ではないけれど、誰か翻訳してくれないかなぁ。

そこまで行くのが大変だ。