Emma

というわけで、

 

名著の誉れ高いこの本を開くと、その名声にたがわない内容に驚くが、「1冊で6冊分のはたらき」と題して

  • [文法編]で・・・・・・基礎づくり
  • [解釈編]で・・・・・・読むヒント
  • [作文編]で・・・・・・書くコツ
  • [単語編]で・・・・・・語彙力増強
  • [発音編]で・・・・・・音の仕組み
  • [varia編]で・・・・・・物織り博士

というわけのわからない帯が付いている。

「フランス語ハンドブック」は「英語ニューハンドブック」から数々の貴重な示唆を得たと書いているが、「長井氏晸氏の労作『英語ニューハンドブック』(萩原孝平氏改訂,研究社)と書いているが、萩原恭平氏のようである。

「英語便覧  長井氏」で検索したら、不思議なものが出て来た。

なぜかね。
「英語便覧」は

古書, 1914/1/1

らしいのだが、大正3年である。
確かに、

和歌山県立田辺中学校教諭長井氏晸休職ノ件 | 国立公文書館デジタルアーカイブ

これが明治40年(なお、1907年)4月2日付文書なのだが、和歌山県立田邉中学校の教諭だったようである。総理大臣は西園寺公望である。
なんとこの方、明治40年のころから、受験英語の参考書を書いていたのだ。
それはよいとして、「鉄緑会」や「代ゼミ」でどう扱われていたのか。すごく気になるところであるが、単に、来歴以上のことが書いてあるなら、日本のエリート教育は何かが間違っていたんじゃないかね?

 

左の赤下線について言えば、確かに”fruit”の語源に”to have enjoyment of”という主観的意味があるらしいが、同時に、"to make use of"という客観的意味もある。

右の下線について言えば、

だと思うが、「直説法」なのか「仮定法」なのかであって、このとき、「直説法」ならば時制の一致を受けて、canがcouldに変わるのだし、「仮定法」ならば、従属文中の(仮定法過去としての)couldは時制の一致で変化しないので、「その結果、外見的には区別し得ない場合も起こり得る」(P.457,旺文社)

  1. she looks as if she could see nothing.
    彼女は何も見えないような顔をしている。
  2. she looked as if she could see nothing.
    彼女は何も見えないような顔をしていた。

自分は、まだ英語を勉強していたころは、「仮定法過去完了」もあるのだし、「過去形」と「弱形」に分けて考えることにしていた(旺文社では、「法moodは時制の一致に優先する」と説明している)。すなわち従属せずに、それぞれに独立して「弱形」が仮定法の変化(のマーキング)である。いわば、

  • she see nothing.(ーfault)

が叙事ではないということだろうか。(叙情に関する「心理」というよりも)「真理」に関する評価を叙している。”fault”と「評価した、、」ことのマーキングである(「思う」以上の事実に関する確信がある)。

  1. she looked as if she could have seen nothing(, when I approached her).
    (彼女に近づいたとき)彼女は何も見えていなかったような顔をしていた。

こうすると、「(実際は見えていたはずの私に)ようやく今、気づいた」となるだろうか。

  • she saw nothing.(ーfault)

と私が確信している。
正しい自信はない。ただの発想法である。
『エマ』の文章ならば、

  1. [直説法(過去完了)]
    (従属節が主節との時制の一致を受けて)事実の肯定/叙事
  2. [仮定法(過去完了)](過去の)事実の否定/評価

のいずれかを述べているはずであるところ、

  1. 実現した事実が、possiblyで強調され、
    買えただなんてと思うと
  2. 実現しなかった事実が、 〃   、
    どうにかして買えたら(どうしても買えなかった)と思うと

文脈がよくわからないのだが、或いは、ピアノが目の前にあって、「ピアノ」たる存在の可能性が事実を以て強く肯定されている時、「なんで(ココに)ピアノがあるの?」(と困惑した)ということだろうか?

なんだろう。
サッチモが、仕事の帰り道に前を通る楽器店のショーウィンドウで眺めていたトランペットがなくなっていたとき、

  金があれば買えたのに(実際には買えなかった)

とがっかりして家に着くと

  なんでここにあるんだ?

と驚くようなシッチュエーションだろうか?
一連の事実であるが、シーン1とシーン2は異なるのじゃないかと思う。
シーン1は、「ない」事実に関する評価を独立に下して、(あらためて)残念がっている。
シーン2は、「ある」という事実に端的に驚いている。


こうやって自分の実力に照らしてツラツラ考えてみると、あんまり英語も得意じゃなかったんだなとわかる。

嫌だねぇ。

庭の果てのヒロイン : 『エマ』を読む
太田晋

P.34あたり。