1858のFrancis Sauveur はLéon Walrasにとって哲学書だったらしい。

小説の前置きにしては異常に長いと思ったら、どうも、デカルトの言う「方法序説」だったらしい。

ルネ・デカルトはジャン=ルイ・ゲス・ド・バルザックの影響を受けたことが明らかとなっているが、レオン・ワルラスオノレ・ド・バルザックシェイクスピアとともに挙げている。 

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要は、小室直樹の言ったことは、出鱈目である。

ただ、数学が(アントワーヌ・オーギュスタン・クールノーほどには)あまり得意ではなかったというのは本当かも知れない。しかし、その場合に於いても、彼にとっての数学は小室にとっての数学とは意味合いを異にしていただろう。

終戦時はそんなものである。

 

https://chat.openai.com/chatの回答

—次のフランス語を和訳してください。

Le roman est une forme toule jeune encore et pleine d'avenir . Nos pères craignent toujours de se laisser aller à l'émotion qu'il leur procure . Les grands noms qu'il a révélés ne leur sont pas familiers . Mais nous autres , moins prévenus contre des gloires qui ne nous sont pas contemporaines, nous ne leur marchandons pas notre admiration . Entre tous les autres , nous savons un homme de qui nous avons lu , relu , commenté l'æuvre où brillent à toutes les pages les éclairs d'un génie shakspearien , J'ai nommé Balzac .

小説はまだ若く、将来性に満ちた形式です。私たちの先人たちは、それが彼らに与える感情に身を任せることを常に恐れています。それが明らかにした偉大な名前は、彼らには馴染みがありません。しかし、私たちにとっては、同時代ではない栄光に対して偏見が少なく、私たちは彼らに私たちの賞賛を与えません。その中で、私たちはバルザックという人物を知っています。彼の作品は、シェイクスピア的な天才の輝きがすべてのページに現れている、読み返し、コメントをしたことがある作家です。

—次のフランス語の文章の文法を詳解してください。Entre tous les autres , nous savons un homme de qui nous avons lu , relu , commenté l'æuvre où brillent à toutes les pages les éclairs d'un génie shakspearien , J'ai nommé Balzac .

このフランス語の文章は、「Balzac」という作家について述べています。文法的には、次のように解釈できます。

「Entre tous les autres」というフレーズは、英語で「Among all the others」という意味で、文章の文脈から判断すると、「他の多くの作家の中で」という意味で使われています。

「nous savons」という動詞は「savoir」の現在形で、英語で「we know」という意味です。

「un homme de qui」というフレーズは、「of whom」という意味で、作家について言及するために使われています。

「nous avons lu, relu, commenté」というフレーズは、動詞「lire」、「relire」、「commenter」の過去形で、英語で「we have read, reread, and commented」という意味です。これは、私たちがBalzacの作品を読んで再度読み、それについて議論したことを示しています。

「où brillent à toutes les pages」というフレーズは、「where shine on every page」という意味で、Balzacの作品の魅力について述べています。

「les éclairs d'un génie shakspearien」というフレーズは、「flashes of a Shakespearean genius」という意味で、Balzacの作品にはシェイクスピアのような天才的な輝きがあると述べています。

最後の「J'ai nommé Balzac」というフレーズは、「I named Balzac」という意味で、文章の冒頭で紹介された作家がBalzacであることを明確にしています。

 

榎戸 誠

★★★★★ 「私は考える、だから私は在る」は、デカルトが言い出しっぺではなかった

2021年11月23日に日本でレビュー済み

デカルトはそんなこと言ってない』(ドゥニ・カンブシュネル著、津崎良典訳、晶文社)は、デカルトが主張したと見做されている21項目について、実証的に論じている。

とりわけ興味深いのは、「学校で教わることはどれも役に立たない」、「『私は考える、だから私は在る』というのは大発見である」、「人間の精神は、思考するのに身体を必要としない」の3項目です。

  • 学校で教わることはどれも役に立たない―― 「若いときのデカルトは確かに、この学院で学び教えられることの中身はいずれも人生にこの上なく役立つと言い聞かされていた。然り。のちに幻滅もした。それもまた然り。だが、学院での勉学に不満があったわけでは決してない。まして、役立たずなどと一言も述べていない。ただ、それ自体で見れば、言われていたほどは役に立たないことが分かった、というだけである。つまり、確実な学問と安全な行動に資する真の原理を教えてはくれなかった――本人曰く、それを期待していたが――ということである。とはいえこの学院での勉学は少なくとも、新しいタイプの真理を発見したいという思いをデカルトの精神のうちに掻き立てた。そのための手段を彼に与えることはおそらくなかったが、真理に一定の形式を付与し、また説明するための手段は確かに与え授けもした。まさしく『方法序説』末尾ではっきりと述べられているとおりである」。
  • 「私は考える、だから私は在る」というのは大発見である―― 「この考えに重きが置かれるからといって、当の考えの持ち主がそこから距離をとるのを妨げられるわけではない、ということになる。しかもこの距離は、単に振り返って眺めるための反省的なものではなく、ある意味で批判的な眼差しを注ぐためのものである。なるほど、私は考える、だから私は在るというのは前代未聞の考えかという問いに、でカルトは、もちろん違うと答える。・・・デカルトは、すでに聖アウグスティヌス(354~430年)がこれと同じ考えを似た表現で述べていることを知っている。あるいは忘れているとしても、指摘されれば、よろこんでアウグスティヌスのことを認めるだろう。このような考えは、強力な懐疑理由にもびくともしないがゆえに、中世の思想家や近代の幾人かによって、本当に特別なものとして前景に押し出されてきたからである。つまり、極り文句のようなものなのである。・・・しかし、この古びた考えのうちに新しい哲学の第一原理を見出しえたのはデカルトただ一人であったことは事実である。アウグスティヌスにも彼の後継者たちにもそのようなことはできなかった」。
  • 人間に精神は、思考するのに身体を必要としない―― 「私たちは、身体抜きの思考というものを経験したことがありません。そしてデカルトはつねに、経験にできるだけ定位しようとしていましたから、人間の精神は思考するのに身体を必要としないという一文は、デカルトの言いそうなことではない、ということになるのです」。

こういう形のデカルト論、哲学本があってもいいんじゃない。

赤字強調は引用者