成人問題

 

markovproperty.hatenadiary.com

 

ジョージ・ブールによるスピノザの解説を見ていたら、アイン・ランドの「我」の哲学の意味に思い当たることが出て来た。
論理的な話だったんだ。

『天使は針先で躍らない。踊るのは悪魔だ!』との言葉が踊る。
「堕天使」がなぜ、悪魔なのか。

  1. 媒介でない
  2. 媒介である
    1. 天子である
    2. 悪魔である

これを踏まえて、

  1. 実在
  2. 概念
    1. 許容できる再帰
    2. 許容できない再帰

すなわち、


    1. 許容できる再帰
    2. 許容できない再帰

だし、

  1. 我々

    1. 許容できる再帰
    2. 許容できない再帰

だったんだ。
要は、ルソーとアイン・ランドは、デカルトニュートンくらい違う。
つまり、このとき、ルソーの「我」は「我々」の内に見出すラベリング(「表示」)に過ぎない、キルケゴールの「実存」は(いまだ)「素朴」に過ぎない。

 

[ ”a”は自由変数である。]

  • ∀の推論図
    • introduction  P(a)int∀xP(x)
    • elimination    ∀xP(x)eliP(t)
  • ∃の推論図
    • introduction  P(t)int∃xP(x)
    • elimination       ∃xP(x),[P(a)]Celi

 

つまり、ニーチェの「超人」とは、ニュートンらがデカルトを批判した際の「超越(数)」と似たような意味合いであって(デカルトの「明証」は「実在」に留まり、数自身の数的実在を、アリストテレスに倣って「明証」から排除した。ニュートン超越数が「在る」と言ったのであり、デカルトは、「無い」と言ったわけではなく、いまだ「アマルガムな中間項」であって、「(「実在」として)考慮する必要がない」と言ったのだ。こうしてみると、デカルトの画期は、アリストテレスに倣ってはいるけれど、「矛盾」を「過程」として肯定的に評価した点だ。しかし、それは「「自由意志」を持つ人間の過程」あって「神の過程」でない。デカルトは、近世の人であって、中世の神学的理解の系譜にあり、いまだ近代人ではない、とはこういうことである。デカルトの「自由意志」は神学的理解の話である。そういった意味では、近代はカントに始まる。☟)、しかし、

 

☞だから、ブダペストユダヤ人である、フォン・ノイマンが、カント・プログラムを否定的に解決したのは、意味がある。
フォン・ノイマンにしろ、ヴィトゲンシュタインの影響を受けたハーバート・ハートにしろ、「現代」(終戦時乃至戦後)はカントの克服から始まった、ポストカントだったのだ。(「ポストモダン」というとニュアンスが異なる。また、近世がポスト中世であって、中世の影響を免れず―デカルトの「自由意志」は神学的意味である—、近代がポスト近世であって、近世の影響を免れず―デカルトによる「存在論的証明」はあくまでカントの主張「デカルトによる」である—、戦後もいかにもカントの理想を目指したように「見える」だけなのだ


なかなかピンと来ないが、実は、今でも「ピン」とくる分野がある。

算数である。

「算数」と「数学」を分けるべきか。
数学者は分けるのはナンセンスと云う。もちろん、正しい。
しかし、それは、カテゴリーミスだ。
なぜなら、それを正しく言うと、「(小学生の)算数教育」と「(中学生以降の)数学教育」を分けるべきかであって、「正味の数学を学ぶのは大学以降」が前提となっているからだ(高校の「数学」でさえ正味の「数学」ではない)。

そのとき、例えば、「はじき」ということが、なぜ、許容され、また、なぜ、許容されないのか。それは「比」と「比率」、「内包量」と「外延量」ともかかわってくる(「数」は出てこない)。

https://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/sansu/WebHelp/05/page5_20.html

戦後の算数教育を作った遠山敬はやはり数学者だったのだ。
わかったうえで「算数教育」のための施策を講じたのだ。
算数教育は発達途上の児童を対象にした、数学に至る道程を、断片的に示しているに過ぎない。それで全体像はわからないのだ。

数全体が対象ではないのだ。
私たちは生まれたときから数学者ではなく、また神の僕でもない。
理性を働かせて数学を理解するように成るのだ。
そのとき人間に成るのだ。
児童はまだ「成人」ではない。

アイン・ランドは「成人」である。


ただし、アイン・ランドを考える時には、19世紀(から20世紀初頭)のロシア・オカルティズムの影響を見ないとわからないかもしれない。