今日のNew Chat(ChatGPT)

フレーゲは同論文で「明けの明星」(独: Morgenstern)と「宵の明星」(独: Abendstern)という二つの名詞を例にとってこの区別を説明した。

意義と意味 - Wikipedia


ようやく、レオン・ワルラスが『フランシス・ソヴァ―ル』で何をやりたかったか、少しだけ見えて来た。

要は、「選好」とは「意味」だ、少なくとも、「意味」として書ける(プロットできる)と言いたかったのではないかと考えるに至った。

要は、デカルト座標のx軸とY軸で「起こる」ことが、〈〉と〈〉の間でも「起こる」と言いたかったのだ。

デカルトは、フェルマーが接線を用いたのに対して、法線を用いることを頑健に主張したのであるが、これは光学的知識を円錐論に帰着させたことに拠る。
すなわち、円推論とは、ギリシャ人たちの議論にとって、あくまで具体的な現実である、三次元の問題だったのだ。なぜなら、ギリシャ人たちは、  を区別できなかったからだ。

これをデカルトは受け継いだ。彼の「デカルト座標」は斜線の交叉であって厳密には90度で交わらなかったのであるが、極めてシンプルな歴史的事実として、「デカルト座標」とは、「透視図法」だったからだ。すなわち、イタリア人が建築に考案した透視図法(光学を工学に応用した、或る種の「自動書記」)を用いた立体図だったからだ。つまり、デカルトはあくまでギリシャ哲学者、いや、本当はイスラム神学の解釈を経由した「ギリシャ哲学者」だったからだ。

要は、デカルトの本質的議論は、(ギリシャ人の)円推論(の二次元化、工学的投影)だったのである。つまり、デカルトにとって、数学者と技術者に本質的な違いはなかったのである(cf.論理演算と電気回路)。

すなわち、『方法序説』は「意味論」だったのだが、これをレオン・ワルラスはやりたかったに違いない。近代的中世人であった、或いは、(近代的自由意志ではなく)中世的自由意志論をぶったデカルトにとって、「我思う」が「神の存在証明」と裏腹の関係があったように、近代人であったレオン・ワルラスにとっても、(前時代の)カトリックの意味論が〈〉と〈〉の調和にとって必須だったようである。

要は、『フランシス・ソヴァ―ル』にとってもっとも重要な、読解の鍵となる一文が、

Que de bouleversements de choses depuis ce temps éloigné où je reporte ma pensée ! mais surtout dans nos âmes que de transformations d'idées successives !

だったようである。これが、重文か複文かではなく、重文構造を持つ複文であることが鍵だったのである(つまり、なぜ、”mais”が”Mais”でないのか)。

I know the least of my demerits merit this miserable death ; but wilfull striuing against knowne truth exceedeth all the terrors of my soule

もちろん、ジョージ・ピールの(同意義)並列文と比較される。
!と;の違いに鍵があったようだ。普段記号の違いに慣れていなかったのであるが、彼らは記号をも上手に使いこなしたようだ。

ゴットロープ・フレーゲ - Wikipedia

Über Sinn und Bedeutung. In: Zeitschrift für Philosophie und philosophische Kritik. 1892, S. 25–50 (Digitalisat und Volltext - Deutschen Textarchiv; online; PDF; 46 kB)

土屋俊訳「意義と意味について」、黒田亘、野本和幸編『哲学論集』勁草書房、1999年、所収

ヒュームの原理 - Wikipedia

www.keisoshobo.co.jp

小室直樹はやはり、何も読めていなかったのだ。
彼は計算的技能に通暁しただけで、束論の歴史的意義に思い至らなかったのではないかと思う。もちろん、後世の人間として、そういう「議論」に言及して知識をプロットすることはできるが、「アンとサリーの課題」としては解けなかったようだ。

束 (束論) - Wikipedia

ブール代数の研究は束の理論が築かれるひとつの契機ともなった。

ブール代数 - Wikipedia

レオン・ワルラスはオーギュスト・クールノーから数学的な薫陶を受けたが、彼の時代背景は、そもそも「ブールが居た時代」だったのだ。

1897年と1900年のふたつの論文で,デデキントは束(彼は双対群(Dualgrupe)と呼ぶ)の概念を導入した.

P.164,(c)束,8.2.リヒャエル・デデキント(1831-191616),抽象代数の歴史

『抽象代数の歴史』におけるデデキントの束論についての「公理的な説明」(P.164)は、コルモゴルフの『19世紀の数学』におけるPP.35-135の記述に依るらしい。
ただし、L.G.Bashmakova and A.N.Rudakov, Algebra and algebraic number theory(, in Mathmatics of 19th Century, ed. by A.N.Kolmogorov and A.P.Yushkevich,Birkhāuser)。

とうとう購入してしまった。『19世紀の数学〈1〉』『確率論』『確率論と私』の3冊。理論的なことはさっぱりわからないが、伊藤清の『確率論』は歴史的背景から説明しているらしい。まことに伊藤(先生)の人柄が偲ばれる話である。
※師事したわけでなく、ましてや数学者でもないのに、故人を「先生」と親しみを込めて呼ぶのは、ずうずうしいというか、なんだか僭越な感じがした。「大先生」なことは言うまでもない。やはり数学は言語作用でなければならない。

 

ブールがバールーフ・デ・スピノザを彼の代数学の研究対象としたことと、レオン・ワルラスが『フランシス・ソヴァール』でスピノザに言及したことは、極めて密接な関係があると思う。

小室直樹にはそれがわからなかったのだ。
夏目漱石が『オセロ』をわからなかったように。

https://chat.openai.com/に聞いてみた。

 

—また、デデキントのべき等法則は、ブール代数の演算においても重要な役割を果たしています。 説明してください

デデキントのべき等法則は、ブール代数の演算において非常に重要な役割を果たします。

ブール代数とは、2つの要素を持つ集合とそれらの間の演算(和、積、否定)によって定義される代数系です。ブール代数では、各要素はべき等元であり、和集合や積集合などの演算において、デデキントのべき等法則が成り立ちます。

具体的には、ブール代数の和と積の演算において、以下のような性質が成り立ちます。

  • A + A = A:ブール代数Aの任意の元aについて、aとaを含む最小の集合はA自身である。すなわち、AとAの和集合はA自身である。
  • A · A = A:ブール代数Aの任意の元aについて、aとaを含む最小の集合はA自身である。すなわち、AとAの積集合はA自身である。

また、ブール代数においては、否定演算に対してもデデキントのべき等法則が成り立ちます。すなわち、A + A' = 1とA · A' = 0が成り立ちます。

これらの性質は、ブール代数における重要な基本定理であり、論理回路設計やデータベースの理論など、様々な応用分野において役立っています。また、ブール代数の研究は、集合論や論理学の発展にも貢献しました。

 

私のようなワケなしの初心者はもちろん、「キタミ式」からですよ。
「きたみ先生」です。〈和〉〈積〉と言われてもよくわからないが、ここでの話は、回路図で、”either”(したがって1)を「返す」、”neither”(したがって、0)を「返す」と思っとけばいいかね。

 

デデキントのべき等法則の「べき」はデカルトの冪集合のことですか

いいえ、デデキントのべき等法則における「べき」は、元の集合に対してその元自身と空集合を含むすべての部分集合の集合を指します。これをデデキントの冪集合と呼びます。

一方、デカルトの冪集合は、ある集合Aに対して、その全ての部分集合を要素とする集合を指します。すなわち、Aの冪集合は、Aの任意の部分集合を要素とする集合の集合です。デデキントの冪集合は、これに加えて空集合を含む点が異なります。

 

よくわからんが、そういうことらしい。


ルネ・デカルトやレオン・ワルラスにとって「数学」とは、神学的世界のアナロジーだったようだ。『方法序説』で言及される「矛盾」は「評価」(の評価)を通じて『フランシス・ソヴァール』で言及される「調和」に帰結したようだ。ルネ・デカルト(1596-1650)とレオン・ワルラス(1834-1910)の間にニコラ・ド・コンドルセ(1743-1794)が居る。レオン・ワルラスとミヒャエル・デデキント(1831-1916)は3歳違いである。