シンどろろ ⑩

購入した。三島の解説が理解できなかったからだ。

この作品そのものよりも、この物語が水溜りにうかんだ油ののやうに光彩を放つてゐるとすれば、その水溜りのはうで人を感動させたのだとも言へよう。従つて、この小説にちらりと顔を出す、最も美しい水溜りの一部は、固い腹筋を誇る父の腹にパンチをくらはして血を吐かせ、その償ひに自分のめちやくちやにされた顔を示し、しかもそれが生温かい肉親の心配をしか呼び起さぬのを見て失望する竜哉の別の肖像画である。志賀直哉氏の「和解」以来、かういふ美しい父子の場面は、あまり描かれたことがなかつた。
— 三島由紀夫「解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』)[11]

11 三島由紀夫「解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』)(筑摩書房、1960年)。三島由紀夫石原慎太郎氏の諸作品』(『美の襲撃』)(講談社、1961年)に所収。

太陽の季節 - Wikipedia

ひたすら感情のバランス・シートの帳尻を合はせることに熱中し、恋愛の力学的操作に夢中になり、たえず自分の心をいつはり、素直さに敵対し、自分の情念のゆるみを警戒するのは、ストイシズムの別のあらはれにすぎないではないか? 恋をごまかす優雅な冷たい身振の代りに、恋をごまかす冷たい無駄な性行為をくりかへすのは、結局、或る純粋な感情のときめきを描くために、ロマンチックの作者が扇や月光を使つたやうに、扇の代りに性行為を使つただけではなからうか?……これだけ性的能力を誇示した小説にもかかはらず、この主題が奇妙にスタンダール不能者を扱つた小説と似てゐるのは偶然ではない。
— 三島由紀夫「解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』)[11]

太陽の季節 - Wikipedia

とりあえず、「バランスシート」は原作では「貸借対照表」(P.28)である。その合理的な関係は「昔の高等学校の生徒たちに見られたあのお人よしの友情」ではなく、「自分の犠牲を伴うことはな」く、「捨てられてゆく」ことも当然に含意していた。
これと対峙するのが、三島の挙げた父親とのエピソードである。もともと母への甘えが抜けなかった主人公が、電車通学に二等客室に利用したいと申し出た、父への甘えを「金持ちじゃない」(P.30)と一蹴されたエピソードに続くもので、貸し借りを通じた関係の割り切りがこの場面の(サブ)テーマとなっている。ボクシングを通すことで「自分の犠牲を伴う」こととなり、借りを返しているのだがただの割り切りに収まらなくなっているのだ。

このボクシングと並んで主人公を惹きつけるのが(P.1の冒頭文)この作品の「マドンナ」となる英子である(そういった意味で、夏目漱石以来の伝統を踏襲している)。
そして、主人公を駆り立てるのが、英子からの、父からの、或いはボクシングの対戦相手からの、視線である。
それが「虹」であるとすると、その「虹」が太宰治の「虹」(『斜陽』)と比較される。

しかし、それでも、英子の存在理由となっているため小説のメインテーマとも関係すると思しき「玩具」とは何だったかは、この作品を読む限りでは、不明である。

心の底では上流社会に憧れてゐる。すべてを関係づける男。「関係と悪魔」だと、彼のことを主人公が戯れに呼ぶ。しかも主人公はこの男を好きだ。この男は、ダムの社会関係を力説し、ダムが資本家の不当利益のために利用され、労働者は搾取され、資本家は多くを外資に仰いでゐる売国的行為であり、ダム建設はアメリカの軍事目的なりといふ。 彼のヒューマニズム、それとダムとの矛盾。ヒューマニズムと、すべてを関係づける思想との関係? しかしあるとき、思はざるダムの事故を救ふために身を挺し、死す。Heroの絶望 瀬山の策動―「関係」の人情論が女を殺す。
— 三島由紀夫「創作ノート『沈める滝』」[1]

沈める滝 - Wikipedia

「玩具」こそが、三島の『沈める滝』の「ダム」すなわち芸術のことではなかったか、と思う。

一読すると、倒錯的な、或いはせいぜい幼稚な、人格の持ち主が、その全能感で権力的な扱いを英子にしているように読めるが、それだけでもないように思う(これが太宰治ならば自己愛の認知や境界の認知に問題があるように思う。だから、太宰の影響を受けたとすれば、わからないではない)。

鍵は「貸借対照表」で、これが「水溜まり」と関係しているように思える。
つまり、アリストテレスの〈鏡〉の比喩であるし、アメリカ的な約定論である。

それは受け取る者と受け取られる者の反射的な関係であり、アリストテレス倫理学でも債務論は人格上のテーマとなっている。
そうすると、こういうことも見えてくる。

商業社会批判の中核となっていたのが、シヴィックヒューマニズムと呼ばれる 市民階級の道徳を重視する考え方であった。 彼らは公共の利益の観点から利己的人間を批判した。 この考え方は、おおよそ次のように整理できる。

シビックヒューマニズム : 商業→奢侈→腐敗→道徳の崩壊

これに対して商業化を受け入れ、スコットランドも経済発展すべきであるという 主張も生まれていた。 ヒュームやスミスはこちらの陣営に属する。

ヒュームやスミス:商業→自由の実現=道徳の涵養

古典派経済学の成立

社会変化、特に経済制度の変化をどう道徳的に理解するか。

Chat君に聞いてみた

 

—please explain "civic humanism"

Civic humanism is a political and intellectual movement that emerged during the Renaissance period in Europe, particularly in Italy during the 14th and 15th centuries. It was a response to the social, political, and cultural changes of the time and aimed to promote active citizen participation in public life, the cultivation of virtuous and educated individuals, and the pursuit of the common good.

The term "civic humanism" was coined by modern historians to describe a set of ideas and values that were prevalent among the humanist thinkers of the time, such as Leonardo Bruni, Francesco Petrarca, and Coluccio Salutati. These thinkers drew inspiration from the classical writings of ancient Greece and Rome, particularly the works of Cicero, Seneca, and the Roman republic.

Civic humanism emphasized the importance of civic engagement and the duties of citizens to actively participate in the political affairs of their city-states or republics. It promoted the idea that individuals should develop their intellectual and moral capacities through education and use their knowledge and skills to serve the public good. Civic humanists believed that virtuous and educated citizens were essential for the stability, prosperity, and well-being of a society.

According to civic humanism, the ideal citizen was not only knowledgeable and skilled but also possessed civic virtues such as integrity, public-mindedness, and a sense of duty. The cultivation of these virtues was seen as crucial for maintaining a well-ordered society and ensuring that political power was exercised responsibly and in the best interest of the community.

Civic humanism had a significant impact on the political and cultural development of Renaissance Italy. It influenced the political thinking of city-states like Florence and Venice, where citizens actively participated in decision-making processes and held public offices. Civic humanist ideas also played a role in shaping the concept of the "Renaissance man" or "universal man," who was not only well-versed in various fields of knowledge but also actively engaged in public life.

Overall, civic humanism was a philosophy that sought to reconcile the values of classical antiquity with the realities of contemporary society. It promoted the idea that individual excellence and the pursuit of the common good were not mutually exclusive but rather intertwined and essential for the well-being of a flourishing society.

—日本語で

シビックヒューマニズム(Civic Humanism)は、ヨーロッパのルネサンス期に特に14世紀から15世紀のイタリアで起こった政治的・知的な運動です。社会、政治、文化の変化に対応するためのもので、市民の積極的な参加、徳を持ち教養豊かな人材の育成、共通の利益の追求を促すことを目指しました。

シビックヒューマニズム」という用語は、現代の歴史家が、当時のヒューマニストの思想や価値観を表すために作り出したものです。レオナルド・ブルーニ、フランチェスコ・ペトラルカ、コルッチョ・サルターティなどの思想家たちは、古代ギリシャやローマの古典的な著作、特にキケロセネカローマ共和国の作品から着想を得ていました。

シビックヒューマニズムは、市民の参加と市民の義務、公共の生活への積極的な関与の重要性を強調しました。個人は教育を通じて知識と能力を開発し、その知識と技術を公共の利益に奉仕するために使用すべきだと考えられました。シビックヒューマニストは、徳を持ち教養豊かな市民が社会の安定、繁栄、幸福に不可欠であると信じていました。

シビックヒューマニズムによれば、理想的な市民は知識と技術だけでなく、誠実さ、公益心、使命感などの市民の美徳を持っているべきです。これらの美徳の養成は、秩序のある社会を維持し、政治的権力が責任を持って共同体の利益のために行使されることを確保する上で重要だと考えられました。

シビックヒューマニズムは、ルネサンス期のイタリアの政治的および文化的発展に大きな影響を与えました。市民が積極的に意思決定プロセスに参加し、公職を務めるフィレンツェヴェネツィアなどの都市国家の政治思想に影響を与えました。また、シビックヒューマニズムの考え方は、「ルネサンス人」または「普遍的な人」という概念の形成にも寄与しました。これは、多様な知識を持つだけでなく、公共の生活に積極的に関与する人物を指しました。

全体として、シビックヒューマニズムは古代の価値観と現代社会の現実を調和させようとする哲学でした。個人の優れた能力と共通の利益の追求は相互に排他的ではなく、繁栄する社会のために不可欠なものであるという考えを推進しました。

—Could you please explain the civic humanism that was inspired by the opposition to the Walpole system in Scotland, which had been annexed by England through the Act of Union in 1707?

(「1707年の合同法によってイングランドに併合されたスコットランドにおいて、ウォールポール体制への反発から喚起されたシヴィックヒューマニズムについて説明してください。」を英訳)

Certainly! The civic humanism that emerged in Scotland as a response to the Walpole system, following its annexation by England through the Act of Union in 1707, emphasized the importance of civic autonomy and self-governance. During this period, some intellectuals and leaders in Scotland resisted English rule and worked to preserve Scottish traditions and distinctiveness.

The Walpole system referred to the governance under the Prime Minister Robert Walpole, who held significant power in the British government. In response to this system, a segment of the Scottish population harbored strong discontent and opposition. They sought to respect Scotland's unique legal system and culture and called for a political framework that prioritized Scottish interests.

From this context, civic humanism began to emerge. Civic humanists emphasized the autonomy and participation of citizens and aimed to restore Scottish self-governance and distinctiveness. They discussed the responsibilities and duties of citizens and advocated for the rights of citizens to be involved in political decision-making.

Supporters of civic humanism stressed the importance of education. They believed that through acquiring knowledge and cultivating virtues, citizens would be able to actively contribute to the interests of the community. They also emphasized the significance of civic service and the pursuit of the public good.

In summary, the civic humanism inspired by the opposition to the Walpole system in Scotland after its annexation by England in 1707 sought to uphold civic autonomy, promote citizen participation, and preserve Scottish traditions and interests.

—日本語で

1707年の合同法によってイングランドに併合されたスコットランドにおいて、ウォールポール体制への反発から生まれたシヴィックヒューマニズムは、市民の自律と自治の重要性を強調しました。この時期、スコットランドの一部の知識人や指導者は、イングランドの統治に対して抵抗し、スコットランドの伝統や独自性を守るために活動しました。

ウォールポール体制は、イギリス政府の中心的な権力を持つウォールポール首相による統治を指します。スコットランドでは、この体制に反発する声が高まりました。スコットランドの一部の人々は、自国の法制度や文化を尊重し、スコットランドの利益を重視する政治的な枠組みを求めました。

このような状況から、シヴィックヒューマニズムが生まれました。シヴィックヒューマニストたちは、市民の自律と参加を重視し、スコットランド自治と独自性を回復することを目指しました。彼らは市民の責任と義務について議論し、市民が政治的な決定に関与する権利を主張しました。

シヴィックヒューマニズムの支持者たちは、教育の重要性を強調しました。彼らは市民が知識を身につけ、徳を備えることによって、共同体の利益のために積極的に貢献できると信じました。また、市民奉仕と公益の追求を重視しました。

要約すると、1707年の合同法によってイングランドに併合されたスコットランドにおいて、ウォールポール体制への反発から生まれたシヴィックヒューマニズムは、市民の自律と参加を重視し、スコットランドの伝統と利益を守ることを目指しました。

—ヒュームやスミスの意見はそれらと異なりましたか

デイヴィッド・ヒュームアダム・スミスは、スコットランドの思想家であり、シヴィックヒューマニズムとは異なる意見を持っていました。

デイヴィッド・ヒュームは、合同法後のスコットランドにおける政治的な変化について書いたり、議論したりしませんでした。彼は個人の心理や知識論に焦点を当てた哲学者であり、政治や市民の役割についてはあまり詳しく触れませんでした。

アダム・スミスも、シヴィックヒューマニズムの主要な議論や概念には直接的に言及しませんでした。彼は経済学者として知られており、自由市場や経済の自発的秩序についての考えを提唱しました。彼は市民社会の自由な経済活動が繁栄をもたらすと主張し、市民が経済的な自己利益を追求することが公共の利益にも資すると考えました。

したがって、ヒューメやスミスの意見は、シヴィックヒューマニズムの中心的なテーマや政治的な関心事とは異なるものでした。彼らの主な焦点は、個人の心理や経済的な自己利益の追求にありました。

—ストイシズムとはナニデスカ

ストイシズムは、古代ギリシャの哲学派の一つであり、倫理学や人生の意味についての理論を提唱しました。ストア派哲学とも呼ばれます。

ストイシズムの創始者はゼノンであり、紀元前3世紀にアテネで創設されました。ストイシズムの目的は、個人が幸福を追求するために内的な精神性や道徳的な価値を育むことにあります。

ストイシズムは、人間の幸福や心の平安を達成するための哲学的な原則を提供します。その中心的な概念は、「自己コントロール」と「内省」です。ストイシズムの信条によれば、私たちは外的な状況にはコントロールを持つことができず、それに固執することは無駄で苦しいものであるとされます。代わりに、私たちは自分の考え方や感情に対してコントロールを持つことができ、内面的な調和と平静を追求するべきだと考えられています。

ストイシズムの哲学的な原則には、以下のようなものがあります:

  1. 自己の運命を受け入れること:外的な出来事に対して抵抗せず、自己の運命を受け入れることで内的な平和を見出す。
  2. 現在の瞬間に焦点を当てること:過去や未来に固執するのではなく、現在の瞬間に集中し、全力で取り組むこと。
  3. 自己の欲望や感情に対する制御:情熱や欲望に振り回されず、理性と道徳に基づいて行動すること。
  4. 他者への奉仕と公正さ:他者を尊重し、公正な態度で接すること。

ストイシズムは、個人の内面的な成長と幸福に焦点を当てた実践的な哲学です。また、ストイシズムの影響は倫理学だけでなく、政治哲学や人間関係においても見られます。その教えは、後の時代の哲学や宗教、心理学にも影響を与えました。

 

どうも不十分である。まぁ、よい。普遍的道徳に関係していることがわかった。
三島はストイシズムを感じたらしい。

1956年12月、ボクシング観戦に慣れ親しんでいる石原慎太郎は、三島由紀夫をボクシングの試合に連れ出した。フェザー級の2人がダウンの応酬を繰り返す激しい試合に、三島はいたく熱狂した。

三島由紀夫は、なぜ石原慎太郎に嫉妬したのか? 慎太郎が語った「三島真剣事件」の真相が凄すぎる(猪瀬 直樹) | 現代ビジネス | 講談社(2/4)

三島由紀夫「解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』)(筑摩書房、1960年)
三島由紀夫石原慎太郎氏の諸作品』(『美の襲撃』)(講談社、1961年)
である。フェザー級は竜哉の階級である(『太陽の季節』)。

三島との出会いから5カ月後、石原慎太郎は「価値紊乱者の光栄」という論文を「中央公論」に発表した。三島由紀夫が称する「道徳紊乱」には、単に風俗を掻き回したという意味合いが漂う。慎太郎は「価値紊乱」に表現を変え、自分の立場の理論武装を試みた。

三島がボディビルで肉体改造を始めたのが、29歳から30歳のころだったとすると、1954年から1955年あり、『太陽の季節』が『文學会』(7月号)に掲載されたのが、1955年である。三島の「道徳紊乱」の感想は、石原の「価値紊乱」の反論を受けて、「ストイシズム」に変化しただろうか。石原は一面では運動神経がよくない三島を見下していたようだ。そういう微妙な関係を穿ってしまう。

「体を鍛えるきっかけは私」美輪明宏語る三島由紀夫との思い出 | 女性自身

その美輪に対して、初対面で、

こんなナルシストは見たことがないね。たまげたもんだ。世の中の人間の目をすべて鏡だと思っている。これはほんもののナルシストだよ

美輪明宏の「美少年伝説」 三島由紀夫が思わず吐いた言葉とは?〈BOOKSTAND〉 | AERA dot. (アエラドット)

と言い放っている。三島由紀夫26歳のころだったらしい。1951年だろうか。

この「鏡」になると、オスカーワイルドだろうか。『ドリアングレイの肖像』
知らない。

essay-au.com

 


メインテーマである「玩具」の文学的経緯がよくわからない。

スタンダール - Wikipedia

ヴァレリー・ラルボー - Wikipedia

スタンダール(Stendhal、1783年1月23日 - 1842年3月23日)
ヴァレリーラルボー(Valery Larbaud、1881年8月29日 - 1957年2月2日)

関係があっただろうか?