村西さん。それは法理論的には、「錯誤」のひとつに「違法性の錯誤」と呼ばれるものがあると思います。

違法性の意識(違法性の認識)とは、実行行為者が、自分の実行している行為が犯罪の構成要件に該当する違法な行為であるということを認識していることをいう。

違法性の意識 - Wikibooks

事実の錯誤説は、構成要件に該当する事実も違法性を阻却する事実も、違法性を左右する「事実」であることには変わりがないことを根拠とする。そして、故意の認識対象について、犯罪事実の認識・予見に加えて違法性阻却事由不存在の認識も必要とする。

これに対し違法性の錯誤説は、故意の認識対象を犯罪事実の認識・予見に限る。したがって、この説によると、違法性阻却事由不存在の認識が無かった場合でも故意は阻却されない。よって、責任が阻却されない限り故意犯が成立することになるが、それでは、錯誤に陥っていたことに対する考慮が欠け、意識的になした故意犯と同様に扱われることとなり妥当ではない。

刑法総論・答案練習講座(第03回)事実の錯誤・違法性の錯誤 - Rechtsphilosophie des als ob

これは過剰防衛が採り上げられていますので「違法性阻却事由(不存在)」が帰趨を決する成立要素になっていますが、それを抜きにして考えるとします。

裁判は、個別の事件に関して、主張を認めるかどうかですから、実際の判決文を読んでみないと、どういう主張の経緯をたどったかはわかりませんが、見たところ、「違法性の錯誤」から「加害者」と訴えた相手の「有責性」を主張したのではないかと思います。

それが認められなかったのか、そういう主張を裁判では十分しなかったのかはわかりませんが(明瞭に概念を操作してロジックを組み立てないと裁判官に伝わりませんので。)、主張として荒唐無稽かどうかは自明ではありません。

要は、彼女たちの主張の本質は、「侵害性」であるとき、これは抽象概念で、この事件では「相手に同意があることに錯誤があったか」が実質問われたと思います。ただし、客観的事実による状況証拠で主観性を問うのか、或いはそうではないのか、を考えたときに、通常「状況証拠」はそれだけで証拠性を認められないものでないでしょうか?

おそらく「状況証拠は状況証拠に過ぎず、何も立証できない」ということが、彼女たちの主張の根幹であって、このとき、法益侵害で謂う「法益」に何を求めたかが彼女たちに問われるはずです。刑法の目的は秩序の安定ですが、このときに、それが或る文化規定に依存しているなら、彼女たちはそれを批判しているのだろうと思います。つまり、それは、AであればBであると推認されるときの、機械的な強制です。要は、「自己」とは機械的な目的物ではないという批判です。

人権の本質を自己支配への確信に置いているのではないかと思います。つまり、このとき、目的としての〈私〉ではなく主体として〈私〉で、主体間の公平に基づく公正が、法益となります。

これが性同意に関する本質的な説明になると思います。

性行為というのは、コインを入れれば(状況の構成に応じて)自動的(強制的)に出てくるカプセルトイ(目的物)ではない、という主張です。

そこに違法性の錯誤を認め、有責性を問うているのでしょう。
もちろん、彼女自身が、当初は男性文化に浴していたのですが※、弁護士によって錯誤から目覚めたのでしょう。
※当初は錯誤であっても、後に、自己利益の増進の意図が明示された場合、要は追認することよって、当初の(意思の侵害であった)違法性は治癒されるか、違法性はなかったことになるか。こうなると、別の問題も孕むことになる。所謂売買春が違法であるとき、違法行為を原因とする被害の訴えは認められるかどうかも問われることになる。買春を認めれば「加害者」はその罪が問われるし、認めなかったとしても、これが所詮は当初の錯誤を前提とした追認(追い銭)であるに過ぎないことにより、すなわち「示談金」は違法行為を前提とするがゆえに、もともとの違法性(侵害性)が問われる、とのロジック(二段構え)である。つまり、「後からメールをしたから」こそ、違法性を問うているのだ。

そういうことはあります。

法の華三法行 - Wikipedia

などの霊感商法もありますし、また、高齢者をターゲットにしたマルチ商法で、宅配サービスが付いていたために、高齢者が自己が被害者であると自認できない場合がありました。加害者が逮捕された後でも、「なくなると困る」と復活を望んでいた様子が報道されました。

後からメールをしたから云々というのは、裁判でも取り上げられたのでしたか、ただ、その場合でも、どのようなロジックの要素になったかが重要です。

裁判結果は社会コストとして受け入れなければなりません。ただ、裁判を批判する自由はあります。それとは別に、マスコミが「加害者」と言い続けるのは、憲法の第三者効力の問題だと思います。いい加減、マスコミ権力の暴力を、相対的な立場に立つ国が認めるべきだとは言えると思います。


伊藤詩織さんの場合は、ちょっと普通のケースではないと思う。
だからと言って、彼女の利益が守られなくてもよいわけではない。

「侵害」に関するそういったルール策定が、今の社会には求められていると思う。
とにかく、この抽象概念を適切に操作できるうようになるべきだと思うし、性教育において、それが人権教育と(保険体育の)性徴に関する教育と両翼であって、人権教育に関しては早期の性教育が社会に求められるのだろうと思う(性徴教育に関しては第二次性徴を一般的に迎える小学校高学年から従前どおり始めればよいと思うが、銭湯における などの社会的な意識の変化を鑑みて、児童の自意識に配慮したうえで、適宜、発達に応じた教育があらためて求められるだろうと思う)。

だからと言って、先走って「加害者」と言ってよいかには云々、という話。